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Kobe Central Church

霊的代謝を盛んに(2015.5.24)

宣教題  「霊的代謝を盛んに」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ2章1~8節

キリスト者生活の醍醐味は、「主が恵み深い方だということを味わい」知り続けることです(3節)。キリストの味は、生きた命の味で(1章3節、23節、2章4節)、「霊的な」ものです(2章2節、5節)。聖書がいう霊的とは、聖霊の導きを喜びとして、聖霊に従っていることであり、神と人の前に謙虚で正直に生きることです。

1.聖徒が霊的に成長する  1~3節
私たちの信仰が成長し、最終的な救いに至る秘訣の一つは、霊的な新陳代謝を盛んにすることです。
自分に捨てるべきものがあるにもかかわらず、それを平気でそのままにしながら成長しようと願うのは無理な相談です。霊的な健康を損なう捨てるべきものが自分にあることを気づいたなら、聖霊の力をいただいて捨てることです。
そして、それに代えて新しく慕い求める者は、「霊の乳」すなわち魂を育てる御言葉の糧です。そうすることによって、聖霊の導きの中で物事を考え、対応するという霊的習慣を身につけ、祈り、御言葉に親しみ、聖徒の交わりを大切にするのです。

2.聖徒の群れが霊的に造り上げられる  4~8節
キリストは十字架に捨てられ、復活され、栄光の座に着かれて「尊い、生きた石」となられました。このお方が、「霊的な家」である教会の命を支える土台となられ、このキリストを信じて結び合わされた聖徒を「生きた石」として教会を造り上げるために用いられるのです。そのようにされている聖徒は、「聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して神に献げ」るのです。すなわち、礼拝を献げ、広くは日常の生活が神に献げられた歩みとして造り変えられ続けていくのです。
私たちは、キリストにどう向き合い、どう関わっていくかを問われています。「選ばれた尊いかなめ石」であるキリストにより頼むならば、いかなる危機の中にあっても、「決して失望することがない」のです。そこには聖霊の支えがあるからです(4章14節)。

主の戦い方(2015.5.17)

宣教題  「主の戦い方」             宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア6章1~21節 マタイ5章16節

エリコを攻略しようとするイスラエルの民にとっての正しい戦い方とはどのようなものだろうか。

1.ヨシュアの命令に民が従う(6章1節, 6~21節)
城門を閉ざしていたエリコとの戦い方について、ヨシュアは民に命令を下した。一日目、祭司たちには契約の箱を担ぐ者と、角笛を吹き鳴らす先導者を備えることを、民にはその後を進んで町の周りを回るのとともに、主の箱の前を武装した兵士たちが進むように命じた(6~7節)。さらに、鬨の声を上げるように命じるまではことばを発しないようにとも命じた(10節)。彼らは忠実にその命を六日目まで守った(12~14節)。七日目には、七度同じように町を回った後、祭司が角笛を吹く際に、鬨の声を上げ、町のものをことごとく滅ぼし尽くすように命じた(15~19節)。民はヨシュアの命令に従った(20~25節)。契約の箱を担いで、城壁の周りを回るという奇妙な行動を求める命令に、民は最後まで従った。

2.ヨシュアを介して伝えられた主の命令に民が従う(6章3~5節)
ところが、ヨシュアの命令は、彼自身のものではない。主から受けた命令を民に伝えたに過ぎない(3~5節)。ヨシュア自身も、主の命令に従うひとりの人である。つまり、エリコでイスラエルが行ったのは、主の命令を一言たがわずに守る、上意下達という戦争の基本的な戦い方であった。

3. すでに勝利をとられている主の戦い方(6章2節)
主の命令に完璧に従ったから、イスラエルはエリコを攻略することができたか。そうではない。なぜならば、これは主の戦いであるからだ。まず、祭司たちが担いだ契約の箱は、主ご自身の臨在そのものである。この箱が町の周りを回ることを通して、主はエリコを着々と攻略された。さらに、主は「わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した」(2節、新改訳)と語っている。主は戦いの前にすでに勝利をとっておられる。民は、主の勝利を目に見えるかたちにしたにすぎない。不完全で、失敗の可能性のあるイスラエルを通して、主はご自身の戦いを戦われる。これこそが、主が選ばれた戦い方である。
主の戦い方は、ヨシュアの時代も、今も、変わらない。主はすでに勝利をとっておられる。すでにご自身の光を輝かしておられる。そして、弟子たちという弱く、だめな人間を通して、主の光をこの世界で輝かそうと願っておられる(マタイ5章16節)。私たちも主の戦い方に加わらせていただこうではないか。

御言葉によるつながり(2015.5.10)

宣教題  「御言葉によるつながり」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章16~21節

私たちは、御言葉によって足元を照らしていただいて歩む生活をしています(詩編119編105節)。ですから、日々に祈りつつ、一歩一歩御言葉の光の中を踏み出すのです。
私たちは、主なる神に信頼して、忍耐しつつ実を結ぶ生活に招かれています(8章15節)。そのためには、受けた御言葉をどうしていけばよいでしょうか。

1.受けた御言葉を語る 16~18節
「ともし火」のたとえをもって語られていることは、御言葉をどう聞くかということを表しています。これは、聞き洩らさないで一所懸命に聞くというよりむしろ、御言葉を聞いたなら、それを他の人が分かるように語り聞かせるようにと勧めているのです。
すなわち、聞かされて御言葉が、一人一人の個人の中で照り輝くだけではなく、語る人と同じ渇き・求め・救い・必要・望みを持つ他の人に光となり命となるのです。主イエスは、それこそが、御言葉を聞いたということであると語られたのです。「主よ。私はともし火がついているのですが、心と生活の隅っこに追いやっています。どうか、部屋の真ん中に置けますように」と祈ろうではありませんか。
2.受けた御言葉に生きる 19~21節
群衆が主イエスの話される種を蒔く人のたとえやともし火のたとえに夢中になって聞いていたときに、母マリアと兄弟たちがイエスに会いたいとやって来ました。そのとき、主イエスは、彼らが肉親であることには違いないが、「神の言葉を聞いて行なう人」こそが真の母であり兄弟であることを明らかにされました。母マリアは、すでにそのような人として備えられていました(ルカ1章26~38節)。
血筋によるつながりは、この世における最高のつながりですが、御言葉による霊的つながりは、永遠のつながりと言えましょう。御言葉による霊的つながりこそが、親子や夫婦の家族関係の基本であり、家族のなかにある様々な課題や問題の解決は、贖い主イエスとの交わりを通してなされるのです。

日々成長していくために(2015.5.3)

宣教題  「日々成長していくために」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ1章22~2章3節

私たちは、主イエスを信じて「新たに生まれた」ときから(1章23節)、救いの完成に至る全過程において、霊的に成長していくのです(2章2節)。そのために、「霊の乳を慕い求めなさい」と勧められています。私たちが、日々に備えるものは何でしょうか。

1.主の御言葉を慕い求める 
 罪に死んでいた者が新たに生まれさせられたのは、人の力や業によるのではなく、「神の変わることのない生きた言葉」すなわち「福音」によるのです(1章23節、25節)。私たちが、主の御言葉である福音を聞いて、キリストの救いに信仰によって結び合わされたときに、私たちのうちにも新生の御業がなされるのです。
 さらに、主の御言葉は、人に命を与え、その命を養い育て、永遠の救いに与らせるのです(2章2節)。そのためには、人との関係を壊す結果をうむ「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」をきっぱりと思いっきり捨て去り、偽りのない「霊の乳」である主の御言葉を一生涯慕い求め続けるのです。私たちは、日々に生きた御言葉経験をいただきつつ歩むのです(詩編119編130節)。

2.主の恵みを味わい知る 
 ペトロは、主の御言葉を慕い求める以上に、もっと広い意味での霊的必要を慕い求めることを勧めています。「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました」(2章3節)と語るように、御言葉を語られた主ご自身とその恵みを味わうことです。
 それによって、具体的な歩みが造られていきます(1章22節)。すなわち、福音の真理を信じ受け入れることによって、神のものとされ、聖なる神の御前に生きる者となるのです。それはまた、他者へと関心を向かわせ、真実な兄弟愛を抱かせ、清い心をもって互いに愛し合う生き方に集中していくのです。
 主イエスは、日々変わることのないお方です。主が恵み深い方であることを覚えて、日々に成長する者とならせていただきましょう(詩編34編9節)。

礼拝ご案内・行事予定(2015.5)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び    1階集会室にて
お話は毎回完結します。いつでもお入りください。
3日(日) 第1聖日 イースター感謝礼拝
「日々成長していくために」
1ペトロ1章22~2章3節
 「サムソン」
士師7:1~8
鎌野 健一
10日(日) 第2聖日 礼拝
「御言葉によるつながり」
ルカ8章16~21
祈りと証し
17日(日) 第3聖日 伝道礼拝
「主の戦い方」
ヨシュア6:1-21、マタイ5:16
「幼子サムエル」
サムエル上3:1~14
佐藤 正雄
24日(日) 第4聖日 聖会礼拝
「霊的代謝を盛んに」
1ペトロ2章1~8節
「聖霊降臨の約束
使徒1:3~14
増永 茂
31日(日) 第5聖日 聖会礼拝
「開かれた道」
マタイ4章18~22節
「荒野での誘惑
マタイ4:1~11
大塚 章信

 祈祷会   恵みの分かち合い (毎週水曜日)   AM 10:30 ~12:00、PM  7:00 ~  8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

5月行事予定

3日(第1聖日)礼拝 聖餐式 5月誕生者祝福
10日(第2聖日)母の日礼拝 銀婚式
17日(第3聖日)礼拝  青年会おたのしみ 役員会
24日(第4聖日)ペンテコステ感謝・伝道礼拝 バルナバ・ミッション祈り会 ハーベストアワー
31日(第5聖日)礼拝

6月行事予定

7日  (第1聖日)礼拝 聖餐式 6月誕生者祝福  教会総会(定期総会)
召天者合同記念会
14日(第2聖日)花の日礼拝
21日(第3聖日)父の日礼拝  教師研修会2
28日(第4聖日)海外宣教日礼拝  Happy Sheep

恵みの仕組み(2015.4.26)

宣教題  「恵みの仕組み」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ1章41~42節

 ここでは、シモンという人物が主イエスと出会ったときに、どう変えられたかということが語られています。主イエスが言われた御言葉は、神の恵みを彷彿とさせ、私たちにも同じことがなされることを知るのです。

1.あなたはシモンである 
 主イエスの鋭くも恵みに満ちた視線がシモンに注がれています。その視線は、弱い者の中に強い者を、不義なる者の中に義を、死んだ者の中に命を見るものでした。同じ主イエスの視線が、今この瞬間においても、私たちの上に注がれています。
 そして、主イエスは開口一番、「あなたはヨハネの子シモンである」と言われました。このように主イエスは、シモンのみか私たちが持っている罪深さや弱さや醜さという人間の正体を診断されるのです。ここから、恵みの御業がなされていくのです。

2.あなたをペトロと呼ぶことにする 
 続く主イエスの御言葉は、「ケファ―『岩』という意味―と呼ぶことにする」でした。シモンにとっては全く思いもよらない言葉でした。しかし、主イエスが大きな憐れみをもって、「岩と呼ぶことにする」すなわち「ペトロにする」と言われたからには、
そうしていただくために、彼が主イエスを信じ、信頼し、自分の何もかも主イエスにかけてみようと受け入れたのです。
 同じように私たちは、主イエスの十字架の身代わりの死と復活のゆえに、それを信じる信仰によって新しく造り変えられる恵みに生きることができるのです。

3.あなたはシモン・ペトロである 
 この後、「シモン・ペトロ」と呼ばれ続けたのは、シモンでありながら、主イエスによってペトロとされ続けていることへの感謝があったからです。ここに主の恵みの仕組みがあります。主イエスは、このことを忘れないで歩む者を、恵みの器として用いてくださるのです。

御言葉に生きる(2015.4.19)

宣教題  「御言葉に生きる」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章4~15節

 主イエスは、人がふさごうとする耳を押し開くかのように、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で叫ばれています。実を結ぶように聞くことを求めておられるからです。そのために、どのように御言葉に生きるかを語られています。

1.確信と忍耐をもって 
 ここに語られているたとえは、御言葉すなわち福音が語られたとき、聞く者の心の状態によって、実を結ぶかどうかが明らかになるということです。聞いた御言葉に対して無関心になったり、始めは喜んで御言葉を受け入れても試練に遭うとすぐに御言葉から離れてしまったり、思い煩いや富みや快楽といったものによって御言葉が塞がれてしまっては、いずれも実を結ぶことはできません。しかし、主なる神は、人の心がどのような状態であっても、御言葉を語り続けてくださる大きな憐れみをお持ちです。
 まず、実を結ぶには、聞いた御言葉を「よく守り」、御言葉をしっかりと握りしめることです。御言葉を離さないで、心にいつも蓄えておくことです。そのためには、「忍耐」することが大切です。御言葉が私たちの心の中でしっかりと保たれて実を結んでいくのに必要なことは、変わることのなく御言葉にとどまり続ける忍耐です。

2.善い心をもって 
 私たちは、御言葉に対して確信を持ち、忍耐を働かせて、歯をくいしばって保ち続けるのではありません。「立派な善い心で御言葉を聞」くことによってこそ、実が結ばれていくのです。神が私たちに対して善を行ってくださるという信仰が、「善い心」なのです(ローマ8章28節参照)。神は恵みによって、私たちの心に御言葉を素直に受け入れやすいように耕してくださるので、神ご自身と御言葉に対する信頼の心を持たせていただけるのです。
私たちは、神が最善になされることを信頼して、御言葉に生きることにより実を結ばせていただくのです。

理不尽な戦闘準備(2015.4.12)

宣教題  「理不尽な戦闘準備」           宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア5章1~12節 エフェソ6章10~13節

 約束の地に入ったイスラエルの民たちはどのようにして来たるべき戦闘の準備をしたのか。

1. 理不尽な戦闘準備
 エジプトを脱出し、四十年の荒野の放浪の中で死に絶えた者たちは戦士であったが、カナンの地で戦おうとしている彼らの息子たちは、荒野で生まれた者であり、戦士ではなかった(4-6)。彼らは、戦いの備えをすることなく、むしろ、主の言葉に従い、自らに割礼を施した(2-3)。さらに、彼らは過越祭を祝い、酵母を入れないパンの祭を守った(10-11)。彼らの行動は、戦闘の準備としては明らかに理不尽である。彼らは勝つことを放棄したのだろうか。

2. 割礼と過越
 割礼は、創世記において主がイスラエルの先祖であるアブラハムに命じられたものである(創世記17章)。主は、アブラハムに数多くの子孫を与え、さらにはカナンの地を与えると約束をされた。自分たちは荒野で生まれた新しい世代の民だが、父たち同様に主の約束を継承していることを、民は割礼を通して確認した。次に、過越は、エジプトに奴隷となっているイスラエルの民を主が解放したことを思い起こす祭儀である(出エジプト12章)。これまでと同じように、主はこれからも救い出し続けてくださり、すべての必要を与えて、養って下さることがこの祭儀を通して思い起こされる。主がなしてくださったわざによって、これまでも、そしてこれからもイスラエルは存在することを、割礼と過越を通してイスラエルは確認した。

3. 理に適った戦闘準備
 だから、割礼も過越も、実は理に適った戦闘準備である。主がイスラエルの真ん中を歩まれているから、彼らはヨルダンを渡ることができた。カナンの王たちが恐れていたのは、イスラエルではなく、彼らのために戦われる主であった(1)。つまり、主が戦われるならば、イスラエルの勝利は確定している。これからの戦いも主の戦いであると確認することこそ、彼らにとっての最善の戦闘準備であったのだ。
 キリスト者の生涯は、「暗やみの世界の支配者」との戦いの日々である(エフェソ6:12)。この戦いに必要なのは、「神の武具」(11)、すなわち「神が戦われる」武具を身に付けること。礼拝は、これが私たちの戦いではなく、主の戦いであることを思い起こさせ、この武具を身に付けさせてくれる。主に戦っていただく、つまり、「主の依り頼む」(10)ならば、勝利は確定している。

恵みの再発見(2015.4.5)

宣教題  「恵みの再発見」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ1章17~21節
 
十字架に死んで復活された主イエスの救いの御業が、繰り返し語られています(1章1~12節、18~21節)。ペトロは、「知ってのとおり」と語ることにより、信仰者が救いと信仰の歩みに対する自覚を失うことないように、主イエスの恵みの再発見をするようにと勧めています。

1.こんなに大きく救われている  18~21節
 神は、「終わりの時」に主イエスによって救いの御業を具体的に始められました(20節)。その目的は、罪に捕らわれ、死に脅かされ、滅びを前にしてなすすべもなく、虚しい生き方をしていた私たちを、十字架の尊い血によって贖うためでした(18~19節)。そして、主イエスの復活に基づく希望をもたらすためでした(21節)。そのようにして、永遠の滅びから、永遠の救いに与らせてくださったのです。こんなに大きな神の恵みによって、こんなにも大きく救われていることを想起せざるをえません。
 ですから、私たちは、日常の平凡な歩みにおいても、困難な状況や激しい試練に見舞われるときであっても、主イエスの恵みのご支配を覚えて歩むのです。

2.こんなに偉大な「父」を知っている  17節
 このような神の恵みに基づく歩みは、神を畏れて生活するようになります。それには、神をどのようなお方として理解しているか、ということに関わりがあります。
「父」なる神は、主イエスによる救いのゆえに、信じる者を惜しみなく赦し、もはや罪を問われず、さばかないと宣言してくださいました。私たちは、その神を「父」と呼び、神の子とされた人格的な交わりに生かされています。愛と憐れみに満ちた神は、ご自分との交わりから一人たりとも失いたくないために、威厳と権威をもって導かれます。ですから、私たちは、それにふさわしい父なる神への畏敬の念をもった歩みをするという自覚が必要なのです。この恵みを噛みしめつつ、信仰の歩みを形づくらせていただきましょう。

十字架の勝利(2015.3.29)

宣教題  「十字架の勝利」            宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  マルコ10章32~45節

十字架は愛のしるしだとよく言われる。しかし、人々の面前でいじめられ、辱められ、見せしめにされ、苦しめられる十字架刑のどこが愛だろうか。その十字架でイエスは勝利を取られた、と言って、だれが信じるだろうか。

1. 敗北のしるし?
イエスと一緒に旅をしていたその弟子たちも、十字架を勝利のしるしだとは信じていなかった。むしろ、これからエルサレムへの上ろうとしているイエスは、そこを占拠している異邦人であるローマ軍を追いだし、王として即位すると信じていた。そのようにしてイエスが栄光を受けるとき、自分たちもイエスと一緒に支配者となり、敵どもに権力を振るおうと考えていた。だから、イエスの予告(33~34節)など理解できなかった。十字架に架けられるメシアなど、敗北者にほかならなかったからだ。

2. だれと、どのようにして戦うのか
イエスと弟子たちと、何が違っていたのだろうか。弟子たちにとって敵は、エルサレムを占拠している異邦人ローマであった。しかし、イエスは、人々を突き動かしているサタン、罪そのものと戦うべきだと考えていた。そして、背後で牛耳っている罪とイエスは戦った。弟子たちは、敵を、敵が用いてきた武力で打ち破ろうとした。しかし、イエスは、敵が想像できない方法、「多くの人の身代金として自分の命を献げる」(45節)ことを通して戦った。そして、罪の最も醜い姿を十字架で世界にさらし、悪すべてを自らの身に負われた。

3. 十字架の勝利に生きる
イエスは十字架で、罪と戦い、確かに打ち勝たれた。三日の後の復活(34節)こそ、十字架の勝利の証拠である。イエスは、弟子たちには想像できない方法で、世界を支配している最大の敵である罪に打ち勝ち、王となられ、世界の秩序をひっくり返した。力ある者ではなく、仕える人やすべての人のしもべを通して、神はこの世界でご自身のわざを進めておられることが明らかになった。
十字架の勝利で世界が変わった、などと信じることのできない世界に私たちは生きている。しかし、イエスを信じるとは、見るだけでは信じることのできないこの世界の変化を受け入れることである。そして、イエスに従うとは、十字架の道、神のみわざの道を選び続けることである。神は、十字架を負う者たちを通して、世界を変え続けてくださっている。

礼拝ご案内・行事予定(2015.4)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び    1階集会室にて
お話は毎回完結します。いつでもお入りください。
5日(日) 第1聖日 イースター感謝礼拝
「恵みの再発見」
1ペトロ1章17~21節
合同記念会
「いつまでも主と共に」
1テサロニケ4章13~18節

 「主イエスの復活」
マタイ28:1~10
鎌野 健一
12日(日) 第2聖日 礼拝
「理不尽な戦闘準備」
ヨシュア5:1~12、エフェソ6:10~13
「共におられるとの約束」
マタイ28:16~30
増永  茂
19日(日) 第3聖日 伝道礼拝
「御言葉に生きる」
ルカ8章4~15節
祈りと証し
26日(日) 第4聖日 聖会礼拝
「恵みの仕組み」
ヨハネ1章41~42節
ギデオンの精鋭」
士師6:7~16
大塚 章信

 祈祷会   恵みの分かち合い (毎週水曜日)   AM 10:30 ~12:00、PM  7:00 ~  8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

4月行事予定

5日  (第1聖日)イースター感謝礼拝 4月誕生者祝福 洗礼式  CSイースター合同礼拝
召天者合同記念会
12日(第2聖日)礼拝 聖餐式 奉仕者任命式 教師研修会① 役員会 エノク会例会
青年会おたのしみ
19日(第3聖日)礼拝 壮年会例会
26日(第4聖日)伝道礼拝 Happy Sheep

5月行事予定

3日(第1聖日)礼拝 聖餐式 5月誕生者祝福
10日(第2聖日)母の日礼拝 銀婚式  役員会
17日(第3聖日)礼拝
24日(第4聖日)ペンテコステ感謝礼拝  ハーベストアワー
31日(第5聖日)礼拝

あなたがたのなかにおられる方(2015.3.22)

宣教題  「あなたがたのなかにおられる方」         宣教 小菅 剛師
聖 書  ヨハネ1章19~34節

荒れ野で叫ぶ声としてのヨハネは、人々の中に立っておられるイエスを指し示している。人々は、知らない、気づかないでいた。ヨハネは、人々に「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」と語っている。ヨハネは自分も消え、人々も消えて、一人立っておられた方だけに人々の目を向けさせた預言者である。では、このイエスを、ヨハネはどのように証しをしたのか。

1.イエスを世の罪を取り除く神の小羊と証しした  29節
ヨハネは、人々の罪を鋭く指摘した。人々は、彼のもとに来て罪を悔い改めて洗礼を受けていた。それが救いではない。ヨハネは祭司の子として儀式宗教、小羊が献げられて罪が赦され、神を礼拝するレビ記教育を受けた人であった。しかし、ヨハネは旧約の生けにえ宗教で人の罪は取り除かれないことを知っていた。
神の子であられるイエスは、神の小羊として十字架で献げられたことにより、人は神に赦されることを明らかにされた。御子イエスの血がすべての罪からきよめるのである(1ヨハネ1章9節)。イエスは、罪を告白するそこに立っておられる。

2.イエスは聖霊のバプテスマを授ける方である 33節
イエスは、罪の力をきよめる聖霊の満たしを与えてくださる方であると証言されている。生まれ変わったクリスチャンは犯した罪で苦しむが、それ以上に内側から起こってくる罪の傾向性に苦しむ。自我であり、古き肉の性質と呼ばれるものである。パウロは、欲する善は行なわないで憎む悪を行なうと言って、自分の内に宿る罪の力に嘆いた。その厄介な内なる自我をキリストは共に十字架につけてくださり、聖霊が支配して罪の力から解放してくださる。
聖霊のバプテスマは、明け渡しに続く聖霊の支配であり、イエスの賜物である。イエスは、弟子たちを世に遣わすに「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20章22節)と言われた。罪からの解放と宣教の力は、聖霊のバプテスマによるのである。

美しい人生(2015.3.15)

宣教題  「美しい人生」             宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章1~3節 ローマ8章32節

人は故郷を失うと、自分の原点また心の居場所まで失うことがあります。さて、神を信じる者は、約束されている「天の故郷」を目指して生きています(ヘブライ11章13~16節)。そのためには、マグダラのマリアのように、主イエスとの出会いが必要です。美しい人生を送るために、人は必ずしも偉大でなくてもよいのです。

1.主イエスと一緒に生きる喜びを経験する  ルカ8章1~3節a
自分で自分をコントロールできずにいたマリアは、主イエスのもとに連れられてきて、病を癒していただきました。以来、主イエスの一行と行動を共にしています。後に主イエスが十字架にお架かりになられた時には、「イエスの十字架のそばに」立っていました(ヨハネ19章25節)。このように十字架のそばに身を置くことによって、そこから流れ出る慰めと恵みを受け取ったのです。しかも、復活された主イエスのお声を聞くことにより、主イエスと一緒に生きることを喜びとしたのです(同20章11~18節)。
ところで、神は私たちの側に立っていてくださり(ローマ8章31節)、罪と死の恐れの中にある私たちの身代わりとして「御子をさえ惜しまずに死に渡され」ました(同32節a)。ですから、私たち一人一人は、主イエスを十字架に架けた私の罪を覚えて、ただ十字架の主イエスを仰ぐのみです。

2.主イエスの後を歩み続ける  ルカ8章3節b
マリアは、主イエスへの感謝をもって、その後ろからついて行き、一行に奉仕しました。その歩みは、主イエスによって用いられました。
御子をさえ惜しまないで与え尽くしてくださった愛の神は、最後まで一緒に歩んでくださり、神が私たちに必要とされるものを備えて、「すべてのものをわたしたちに」与えてくださいます(ローマ8章32節b)。ですから、私たちは、主イエスを信頼して、天の故郷を目指して歩み続けるのです。そして、今日一日が最後の日であるかのように覚えつつ、主イエスと一緒に歩むのです。

心の底から(2015.3.8)

宣教題  「心の底から」               宣教 池口留都伝道師
聖 書  エフェソ4章17節~5章5節
私たちの生き方、行動、私たち自身を決めるのは、私たちの心の中にあるものです。そして心の中にあるものが、私たちの刈り取る結果を決めます。

1. 古い人と、その心の中
異邦人と書かれている、古い人は、愚かな考えを頼りにし、歩みます。よいものを見ても、それをよいものだと分からず、悪いものを見ても、それをよいものであるかのように思ってしまいます。知性が暗くなっているからです。その原因は、心の中にある、無知とかたくなさです。その結果、態度は無神経、無感覚、鈍感で冷淡、まひした状態になり、行動は醜く、生き方は絶望的です。これは、生まれながらの人の姿、この世の姿そのもので、キリストと神との国を受け継ぐことはできません(5章5節)。

2. 心の底から新たにしてくださる、イエス様
しかし、あなたがたはそのように歩んではいけない、と主は言われます。なぜなら、キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだからです(4章21節)。私たちを自由にする、イエス様にある真理。それは、「…古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け…」(4章22~24節)です。私たちは、イエス様の十字架のもとに古い人を脱ぎ捨て、復活されたイエス様によって、新品の、新しい人格、つまり、イエス様の心、人柄、かおり、性質を、着せていただけるのです。表面ではなく、心の底から、私たちを変えてくださるのです。イエス様のように。

3. 新たにされた心で、愛する
心の底から新たにされた歩みは、愛によって歩む生き方です(5章5節)。私たちの心、感情の対処の仕方、言葉、働く意味…すべてが、キリストのからだを建て上げるための有益な賜物として、新たにされ、用いられます。そこにある関係は、「実に、神の国がここにある」…という、私たちの関係です。
心の底から新たにされ続け、愛による歩みをさせていただきましょう。

2015年3月22日 春の聖会のご案内

聖会礼拝 「あなたがたの中におられる方」
午後の聖会「わたしはこう祈ります」
メッセージ 小菅 剛 師

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