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Kobe Central Church

祝福の根源(2019.9.8)

宣教題 「祝福の根源」          宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ19章28~48節 1コリント6章19~20節

 本箇所は、主イエスが平和の王として来られてエルサレムに入城され、この後十字架のご受難の道に向かわれた危機的な場面です。この時、人々は主イエスをお迎えしましたが、それが必ずしも主の御心に沿うものではありませんでした。

1.救い主の訪れを見過ごさないように  28~44節
 主イエスを迎えるに際して、二つのグループがありました。一つは、イスラエルの王として迎え入れた弟子たちや多くの群衆です(36~38節)。もう一つは、主イエスを拒絶したユダヤの宗教家たちで、主イエスを妬み、亡き者にしようとしていた者たちです(39~40節)。それに対して、主イエスは、ご自身を通してもたらされる神による平和の道を見失い、ご自身を通して神が訪れておられることを見過ごしている者たちへ、泣いて審きを予告されました(41~44節)。
 さて、私たちは、救い主イエスが私たちを訪れて良心に語りかけておられる御声を退けないで、「主よ」とお迎えして応答することが肝要です。

2.永遠の救いを失わないように  45~48節
 主イエスは、神を礼拝すべき神殿が強盗の巣となっており、そこにあった多くの罪のゆえに怒られました(45~46節)。それに対して、宗教家や指導者たちの主イエスに対する殺意はますますエスカレートしていきました(47節)。彼らは、本来の礼拝をする場所に戻そうとされた主イエスを無視して、自分たちの一時的な満足のために永遠の救いを失ったのです。
 さて、私たちは、主イエスが血をもって買い取られた神殿であり、神のものとされたのですから、そこを主イエスに明け渡すことが祝福の根源です(1コリント6章19~20節)。この恵みに生きるなら、霊的に老いることはありません。

聖書朗読(1.0MB)

メッセージ(8.0MB)

恵みの賜物(2019.9.1)

宣教題 「恵みの賜物」          宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ3章1~13節

 この手紙は、教会とは何なのか、教会に生きることと教会に仕えることとはどういうことなのかを中心に語ります。本箇所では、話題を転じて挿入するようにして、神の恵みを賜わっている者の生き様を伝えています。

1.ひとり一人の生涯が変えられる  1~9節
 神の救いの「計画」の全貌は、キリストによって、聖霊の御働きによって「啓示」され開かれました(3節、4節、5節、9節)。そのご計画は、ユダヤ人も異邦人も皆等しく、神の民としての約束と救いに与ることを定められ、それをキリストによって実現されました(6節)。この福音こそが、神の恵みの賜物であり(7節a)、それを受け入れた者の生涯を変えるのです。
 さらに、「この福音に仕える者」とする恵みの賜物でもあります(7節b)。この恵みの生涯を歩み続けるならば、恵みにより謙遜にされ続け、深められていく歩みとなります(8節、1テモテ1章15節)。

2.その苦難の中に栄光を見る  10~13節
 こうした神の恵みを賜わっている者の生涯は、苦難を経験しないとは限りません。むしろ、キリストのために、他者の救いのために受ける「苦難」の歩みでもあります(1節、13節)。それゆえに、パウロは、キリスト者とその教会に「落胆しないでください」と励ましているのです。そのことの中に神による「栄光」を見るからです(13節)。

 教会のための苦しみは、教会に生きる喜びと分かち難く結びついています(コロサイ1章24節)。それは、キリストが十字架と復活を通してたどられた価値ある歩みです。私たちも、この信仰の確信を高らかに宣言しましょう(12節)。

聖書朗読(0.9MB)

メッセージ(11MB)

主こそ救い(2019.8.25)

宣教題 「主こそ救い」       宣 教  宮澤 清志師
聖 書 エレミヤ17章1~14節

 私たちは、「祝福される」すなわち「幸いな人」とは、周りの環境に恵まれ、何の苦労もなく生きている人であると考えます。しかし、この箇所においては、祝福された人にも暑さや干ばつが襲うとあります(8)。一見、呪われた人(5)と同じ境遇のように感じられます。
では「呪われた人」と「祝福された人」とは、いったい何が違うというのでしょう。

1.罪の中の人間の姿
 まず、ここでは神を失った人間の姿は、「人間」に信頼する生き方であると語ります(5)。自分を信頼し、自分が築き上げた「富」(11)を信頼し、結果、その人は「神を失った者」(11)となるというのです。
 また、そのような人は「荒れ地の裸の木」(6)にたとえられています。からからに乾ききった不毛の地、炎暑の地を住まいとする人のようだとこの箇所は語ります。
 そして聖書はそのような人の心を「とらえ難く病んでいる」(9)と語るのです。そのような心の現実に振り回され、心に傷を負い、自らを傷つけているのが人間の姿であるような気がします。

2.人間に対する神の愛
 そのような罪の中にいる人間に対して、預言者エレミヤは神に嘆きます。エレミヤは、人間の現実の姿にただ涙し、嘆いているのではなく、救われる道があると説くのです。それが、救い主である主のもとに帰ることなのです。

 「癒し主」であり「救い主」であるお方のもとに帰ることができますように。

聖書朗読(1.2MB)

メッセージ(12.3MB)

礼拝ご案内・行事予定(2019年9月)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

 

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日) AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び
1階集会室にて お話は毎回完結します。
いつでもお入りください。
1日(日) 第1聖日 創立記念73周年記念礼拝
「恵みの賜物」
エフェソ3:1~13
ダニエルと獅子
ダニエル6:1~24
鎌野 健一
8日(日) 第2聖日 長寿祝福礼拝
「祝福の根源」
ルカ19:21~48
神の小羊なるキリスト
ヨハネ1:39~37
山崎 勝
15日(日) 第3聖日 伝道礼拝
「いつまでも残るもの」
1コリント13:13
カナの結婚式
ヨハネ2:1~11
増永 茂
22日(日) 第4聖日 伝道礼拝
「ノアの箱舟と大洪水」
創世記7:1~5
祈りと証し
29日(日) 第5聖日 伝道礼拝
「安らぎをあなたに」
ヨハネ14:27~31
サマリヤの女
ヨハネ4:4~26
鎌野 健一

祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日)  AM 10:30 ~12:00、PM 7:00 ~ 8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

9月行事予定

■ 1日(第1聖日)創立73周年記念感謝礼拝 洗礼式 9月誕生者祝福 聖餐式
■ 8日(第2聖日)長寿祝福礼拝 敬老感謝会 役員会
■ 15日(第3聖日)伝道礼拝
■ 22日(第4聖日)伝道礼拝 次期公用聖書説明会
■ 29日(第5聖日)伝道礼拝

10月行事予定

■ 6日(第1聖日)世界聖餐日礼拝 10月誕生者祝福 聖餐式 避難訓練
■ 13日(第2聖日)神学校デー礼拝 役員会
■ 20日(第3聖日)特別礼拝 特別集会
■ 27日(第4聖日)宗教改革記念日・伝道礼拝 Happy Sheep  

キリストの期待(2019.8.18)

宣教題 「キリストの期待」     宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ19章11~27節

教会に連なるクリスチャンたちは、主イエスが再臨されることを待望しつつ、神の歴史を歩んでいます。このたとえ話では、その期間どのように過ごすのかを明らかにしています。そこには、キリストの期待があります。

1.主の福音を託された歩みをする
このたとえ話は、10人の人に1ムナずつ公平に託されています、主イエスから公平に託されているものとは、だけでもイエス・キリストを信じて悔い改めるなら、救われるという賜物です(エフェソ2章8~9節)。神から無代価でいただけるこの恵みに対して、本気で感謝しているか、そのことが小さなことに見えて、かすんでいることはないかと問われます。
キリストが期待されていることは、クリスチャンは主イエスが再臨されるその時まで、託された主の福音を生活の場で生かし(13節)、主の福音を忠実かつ熱心に宣証していくことです(17節)。

2.主との交わりが深められていく
10人に公平に託された1ムナでしたが、主人が帰って来た時に、3人の僕だけが主人の前に進み出ました。1ムナを10倍また5倍にした人は、主人をどこまでも信頼して、忠実に仕えたのでした。1ムナをそのまましまっておいた人は、主人に対する理解がなく信頼せずにいたために(21節)、主人は失望しました。

クリスチャンは、主イエスご自身とその救いに対していつも信頼しつつ、主の福音を宣証し続けるのです。そうすることによって、主イエスがどういうお方であるかを知り続け、その救いがますます深められて豊かにされていくのです。神の栄光が現わされ、主イエスが喜ばれる群れとさせていただきましょう。

聖書朗読(1.0MB)

メッセージ(10.9MB)

キリストが私たちの平和(2019.8.11)

宣教題 「キリストが私たちの平和」    宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ2章14~22節

 誰もが平和に暮らしたいと望むのは、パウロの時代も今も変りません。ところが、平和を求めていながら、人間と人間の間に強固な「敵意という隔ての壁」(14節)があって、互いに疎外し、分断し、分裂し合っているのが現実です。

1.主の十字架こそが 
 敵意という隔ての壁がひとたび築かれると、取り除くのは何と難しいことでしょう。そうした人間の現実に対して、「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(14節)と宣言しています。キリストこそが、「一人の新しい人を造り上げて平和を実現」されるからです(15節)。
 そのために、キリストは「十字架によって敵意を滅ぼされました」(16節)。そこには、人が神に対して敵意という壁を築いてきたという事実があります。また、神はご自身の正義と平和を私たちに要求して裁かれるのではなく、ご自身が十字架に架けられてまで、私たちに対する愛を貫かれたという事実があります。

2.主の十字架の道を生きることが  
 それゆえに、私たちは、キリストの十字架によって一つに結ばれているのです(17~18節)。ですから、私たちはキリストの平和を他の人に要求するのではなく、私たち自身がキリストに倣って十字架の道を生きるのです。
 ただし、その道は、孤立して歩むのではなく、教会において、信仰の仲間たちと共に歩むことによって培われていくのです。そこにおいて、神の家族として結ばれ、神の愛の交わりをもって生きるのです。聖霊の働きによる絆で結ばれ、聖なる神殿となって神の住まいとなるのです。キリストが自分たちの平和であることを存在の根拠に置く人々が加えられることを祈り、労するのです(19~22節)。

聖書朗読(0.7MB)

メッセージ(9MB)

受けた恵みを忘れずに(2019.8.4)

宣教題 「受けた恵みを忘れずに」     宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ2章11~13節

旧新約時代の神の民とされた者たち、そして今日の私たちは、信仰者とされた感謝と喜びが薄れ、他の様々な事に優先順位を与えがちになります。それに対して、「心に留め」(11節)、忘れないで覚えていなさいと勧めているのです。

1.以前には、これまでも  11節~13節a
まず、「以前は」と、神の救いの恵みを受ける前の状態を思い起こさせています。ここに、割礼なく、キリストなく、国籍なく、約束なく、希望もなく、神もない深刻な状態が語られています。
それが、「遠く離れていた」状態です。すなわち、神が見えず、神のことを意識することもない遠さの中にいたということです。人と人とを分断し、隔てる壁を築き合っていたのです。人を敵と味方に分け、仲間とそうでない人々を区別し、互いに恐れ、不信感を抱き、高慢さで断絶された状態でした。

2.今も、これからも  13節b
しかし、「今や」、神と人の両方に「近い者になった」と高らかに宣言しています。神の選民も異邦人も「キリスト・イエスにおいて」、神によって子として受け入れられ、神の国の国籍を持つ者とされたのです。「キリストの血によって」罪を赦された者同士が、共に喜び、共に泣き、互いに兄弟姉妹として受け入れ合う近い者とされたのです(1コリント11章24~25節の「記念として」を参照)。

私たちは、エフェソの人々と同じように、「今や」すなわち今も、これからも、天の御国に迎え入れられるその時まで、順境の時も逆境の時も、神の恵みを忘れずに、絶えず感謝し、常に喜んでいるのです。この感謝と喜びが、自分だけでなく、関わる人々を潤すのです。ここに勝利ある信仰生活があります。

聖書朗読(0.4MB)

メッセージ(11MB)

神の国は近づいた(2019.7.28)

宣教題 「神の国は近づいた」       宣 教  石﨑善土伝道師 
聖 書 マルコ1章1~15節

 マルコによる福音書は、主にペテロから聞いた事を書き記しています。その中心は、神の子イエス・キリストの福音です(1節)。そのため、イエスの生い立ちに関する記載は一切なく、福音が伝えられ始めるところからはじまります。

1.イザヤの預言
 福音は、救い主であるイエス・キリストより先に、洗礼者ヨハネが活動を開始したときから始まります。しかし、それより700年も前に、旧約聖書に預言として書かれています。神は福音の備えを、私達が命を与えられるはるか前から計画されていました。神ははるか昔から、私達を愛し、福音を計画されました。

2.ヨハネの預言
 ヨハネは罪の赦しを得させるため、悔い改めの洗礼を宣べ伝えました(4節)。福音は、神からの赦しをもたらします。私達は神に罪を悔い改めるとき、赦されます。そのためには、自らが罪人である事が判り、認める必要があります。
 ヨハネは、水で洗礼を授けましたが、聖霊で洗礼を授ける方が来ることを預言しました。

3.イエスの預言
 イエスが現れて、ヨハネから洗礼を受けたとき、聖霊が天から降って来ました。聖霊は神ご自身であり、天から降って来られます。地上にあるものではなく、神からしか与えられません。聖霊は神の力を与えます。イエスは荒れ野で誘惑を受けますが、聖霊の導きによって勝利し、神の福音を伝え始めました(14節)。神が王である王国が近づいたとイエスは預言します。王国の民は王に守られ、豊かになります。神の国に入るには、罪の赦しとともに、悔い改めて与えられます。

聖書朗読(0.9MB)

メッセージ(11.9MB)

礼拝ご案内・行事予定(2019年8月)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日) 第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15 第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00 第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00 ○成人科プログラム (毎週日曜日) AM9:30 ~ 10:15 楽しい聖書の学び 1階集会室にて お話は毎回完結します。 いつでもお入りください。
4日(日) 第1聖日 平和聖日礼拝
「受けた恵みを忘れずに」
エフェソ2:11~13
エリシャ2 器と油
列王下4:1~7
鎌野 健一
11日(日) 第2聖日 礼拝
「キリストがわたしたちの平和」
エフェソ2:14~22
エリシャ3 ナアマン将軍の癒し
列王5:1~14
山崎 勝
18日(日) 第3聖日 教団創立記念礼拝
「キリストの期待」
ルカ19:11~27
神に背いたヨナ
ヨナ1;1~17
増永 茂
25日(日) 第4聖日 伝道礼拝・振起日礼拝
「主こそ救い」
エレミヤ17:1~14
祈りと証し

祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日)  AM 10:30 ~12:00、PM 7:00 ~ 8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

8月行事予定

■ 4日(第1聖日)平和聖日礼拝 8月誕生者祝福
■ 11日(第2聖日)礼拝 聖餐式
■ 18日(第3聖日)礼拝 ギデオン・ラリー ソーメン大会 次期公用聖書説明会 役員会
■ 25日(第4聖日)振起日合同礼拝・伝道礼拝(講壇交換) エノク会例会

9月行事予定

■ 1日(第1聖日)創立73周年記念感謝礼拝 洗礼式 9月誕生者祝福 聖餐式
■ 8日(第2聖日)長寿祝福礼拝 敬老感謝会 役員会
■ 15日(第3聖日)伝道礼拝
■ 22日(第4聖日)伝道礼拝 次期公用聖書説明会
■ 29日(第5聖日)伝道礼拝

神の匠のわざ(2019.7.21)

宣教題 「神の匠のわざ」       宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 エフェソ2章1~10節

 本箇所では、キリストを信じるようになる前(Before)と、キリストを信じるようになった後(After)の違いを、対比して見せています。そこには、神の匠としての見事な恵みのみ業が明らかにされています。

1.どんなにひどい状態であっても   1~6節
 私たちのキリストを知る以前について明快に語っています。「以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」(1節)のであり、将来の望みがない状態でした。それは、この世の価値観だけに基づいて「過ちと罪を犯して歩んでいた」のであり(2節)、肉の欲、肉の思いに基づく生き方を追い求めていたのでした(3節)。
このように死んでいた私たちは、「神の怒りを受ける」ばかりの状態でした。
 「しかし、憐み豊かな神は」、怒りによって裁くことをせず、滅ぼすことをせず、その愛ゆえに独り子イエス・キリストを遣わして救いの道を備え、新たに造り変えてくださったのです(4~6節)。神の恵みだけがそれを可能にしました。

2.どんなに見事な神の作品に   4~10節
 神の救いは、キリストにおいて成し遂げてくださった恵みの働きによって実現しています(5~6節)。神の愛と憐みのゆえに、死んでいた者が生きる者とされたのです。このように「救われたのは恵みによる」のであり、救いへの途上にあるのでも、救いのために努力しているのでもなく、救われた者として苦闘しているのです。この神の恵みは、信仰を通して私たちに働くのです(8~9節)。

 このようにして、「わたしたちは神に造られた」神の作品であり、神が備えてくださった「善い業を行って歩む」のであり(10節)、キリストに結ばれた者としてキリストを現わし続けていくのです(7節)。誇るならば、この神のみ業を!

聖書朗読(0.9MB)

メッセージ(13MB)

祝福の担い手(2019.7.14)

宣教題 「祝福の担い手」     宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ルカ19章1~10節

 主イエスは、ザアカイに「今日、救いがこの家を訪れた」(9節)と言われました。訪れたとは、出来事が起こったということです。主イエスはこの出来事を通して、神の救いの祝福の担い手は、どういう人なのかを明らかにされました。

1.どういう出会いをするか 
 ザアカイは、この世の価値は富にあると考えてはいたものの、それでは本当の納得のいく人生を送れないという寂しさを覚えていました。徴税人を仲間としてくださる主イエスを見るために、彼はその踏み台として「いちじく桑の木に登った」のです(4節)。これは、何かの踏み台をもって主イエスを見ようとする人間の魂の状態を表しています。
 そんなザアカイに向かって、主イエスは彼の名を呼び、招き、交わりを持とうとされました(5節)。彼は、主イエスの御言葉をなぞるようにして、その救いの招きに引きずり込まれていきました(6節)。私たちひとり一人も同様です。

2.どういう生き方が生まれるのか 
 二つの問いかけを聞きます。一つは、つぶやく人たちのように、自分も罪人のひとりであることに気づいていないことはないか(7節、1テモテ1章15~16節)。
二つは、ザアカイのように、主イエスの救いの恵みに与って、心と生活が神の願われる価値観をもった生き方に変わっているか(8節、2コリント5章16~17節)。
 主イエスを受け入れて結び合わされたザアカイは、アブラハムと同じように神の祝福の担い手となりました。この救いの出来事は、ザアカイの家族に救いが及んでいく始まりとなったのです(9節)。これこそが、神から、隣人から失われていた、自分で自分を見失っていたひとり一人への救いの招きなのです(10節)。

聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(10.7MB)

神の現実を見て生きる(2019.7.7)

宣教題 「神の現実を見て生きる」     宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 エフェソ1章15~23節

 パウロは、神をたたえる賛美(1章1~14節)と神への祈りをささげています。(同15~23節)。その神への祈りは、神の現実を見て生きるためには、何であれば、どうあればよいのかを明らかにしています。

1.神を深く知らされ続ける  15~17節、20~23節
 パウロは、エフェソの人々の信仰と愛に対して「絶えず感謝しています」(15~16節)。そして、とりなしの祈りが展開されています(17~19節)。その最初の祈りが、「神を深く知ることができるように」との祈りです(17節)。
 神は、キリストを十字架に死なせ、復活させ、昇天させて神の右の座に着座させ、すべてのものを支配下に置かれました(20~21節)。そして、教会においてこの「神を深く知る」ことができるようにしてくださり、その恵みを受け取らせてくださったのです(22~23節)。
 神を体験的に知り続ける中から、神の現実を見ることができるのです。

2.神が心の目を開き続けてくださる  18~19節
 続いて、神が「心の目を開いてくださるように」と祈っています(18節)。ところが、現実は人が見聞きしていることにとらわれて、神を信じることに意味も価値も見い出さず、神の御旨を尋ねることなしに生きていることがあります。
信仰とは、この世の現実だけしか見ないことを止めて、神の現実を見て生きることなのです。ですから、神の招きによる希望、信仰者が受け継ぐべきものの豊かさ、わたしたちに対する神の力の絶大さという救いの現実を見ることができるように「心の目を開いてくださるように」祈るのです(18~19節)。

私たちは、神が祈りに答えてくださるとの信仰を抱いて生きるのです。

聖書朗読(0.8MB)

メッセージ(11.1MB)

神が召すとき(2019.6.30)

宣教題 「神が召すとき」          宣 教  大嶋重徳師 
聖 書 イザヤ書6章1~13節

ウジヤ王の死んだ年にイザヤは神殿で幻を見ます。神の為さることの全てに神のご計画があるのであれば、この時、イザヤに神は語らなければならないことがありました。イザヤの住む南ユダ王国は偶像礼拝、姦淫、不品行が満ち、形だけの礼拝をする民が多く居ました。すでに預言者の働きを始めていたイザヤにとって、ユダの状況は怒りと裁きの預言を語るしかなかったのです。

しかし神はご自身をイザヤにあらわされ、イザヤに「わたしは汚れた唇の者」さらに「汚れた唇の民の中に住む者」(5節)と自らの罪とユダ王国の罪人の繋がりの中にいる自らの存在の告白に導かれます。そして「すると」(6節)という言葉と共に、神の側の一方的な救いの業が起こり、「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(7節)という赦しの宣言がイザヤに聞こえてくるのです。

キリスト者は、自らの罪深さを深く知りつつ、尚、礼拝の只中で神の圧倒的な赦しに身を置いていることを深く知らされていく者とされているのです。そしてさらにイザヤは驚くべき神の声を聞きます。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」(8節)。この驚くべき神の召命の実際を聞いたイザヤは「主よ、いつまででしょうか」(11節)と自らが受けた救いをあのイスラエルの民の中でいつ実現するのでしょうか?という祈りをささげ、キリスト預言に生涯をささげました。

私たちは今日、自分に与えられた救いの事実からどのように主の召しに生きるように導かれているでしょうか。

聖書朗読(1.1MB)

メッセージ(15.7MB)

礼拝ご案内・行事予定(2019年7月)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日) 第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15 第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00 第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00 ○成人科プログラム (毎週日曜日) AM9:30 ~ 10:15 楽しい聖書の学び 1階集会室にて お話は毎回完結します。 いつでもお入りください。
7日(日) 第1聖日 礼拝 「神の現実を見て生きる」 エフェソ1:15~23 獄吏と家族の救い 使徒16:25~34 鎌野 健一
14日(日) 第2聖日 礼拝 「祝福の担い手」 ルカ19:1~10 エリヤ1 生きて働かれる神 列王上17:1~16 山崎 勝
21日(日) 第3聖日 教団創立記念礼拝 「神の匠のわざ」 エフェソ2:1~10 エリヤ2 火をもって答える神 列王上18:20~40 増永 茂
28日(日) 第4聖日 伝道礼拝 「神の国は近づいた」マルコ1:1~15 祈りと証し

祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日)  AM 10:30 ~12:00、PM 7:00 ~ 8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

7月行事予定

■ 7日 (第1聖日)礼拝 7月誕生者祝福 聖餐式 教会学校教師研修会2
■ 14日(第2聖日)礼拝 オリーブ例会 介護勉強会 役員会
■ 21日(第3聖日)礼拝 教団創立記念日礼拝
■ 28日(第4聖日)伝道礼拝

8月行事予定

■ 4日(第1聖日)平和聖日礼拝 8月誕生者祝福
■ 11日(第2聖日)礼拝 聖餐式
■ 18日(第3聖日)礼拝 ギデオン・ラリー ソーメン大会 次期公用聖書説明会  役員会
■ 25日(第4聖日)振起日合同礼拝・伝道礼拝(講壇交換) エノク会例会

地の果てに至るまで(2019.6.23)

宣教題 「地の果てに至るまで」      宣 教  石﨑善土伝道師 
聖 書 使徒言行録1章6~11節

 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」私たちは、信仰を持つと同時に、宣教する事が神の命令であると言われ、努力してきたのではないでしょうか。

1.聖霊が降るとき
 しかし、イエスは宣教に行く前に、する事があると言われます。それは、聖霊が降るのを待ち、聖霊によって力を受けることです。宣教には、困難が待ち受けています。それは、異教との闘いであり、文化との闘いであります。海外宣教は更に多くの困難があります。気候や病気、食べ物、言葉の壁、経済的な事、クリスチャンの仲間、命の危険、人手不足等々、上げればキリがありません。その様な中で、失敗し挫折し、自分を見失ってしまう事があります。
 聖霊が降るとき、自分が罪人であることがはっきり分り、イエスが救い主であることが分かり、自分が救われていることが分かります。それは、自分が何者であるかが分かる事です。宣教(doing)をする前に、自分が何者(being)であるかが分かっていなければ、困難にあったとき、踏みとどまる事ができません。

2.わたしの証人となる
 地の果てには、頼りになるものがあまりありません。支えになってくれる家族、友人、頼れる医者、慣れ親しんだ食事、本や漫画、教師。それらは遥か遠くにあります。遠くにありますが、それらの支えがなければ、証人としてその地に立ち続ける事はできません。使徒たちが地の果てに宣教に出て行ったとき、エルサレムでそれを支援する使徒もいました。宣教は、出て行く人と残って支える人のチームです。どちらも主の証人であり、聖霊による力でする事が必要です。

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(10.3MB)