聖 書
キリスト・イエスに属する者は、肉を情欲と欲望と共に十字架につけたのです。 (ガラテヤ5章24節)
礼拝音源(29.2MB)
礼拝順序
前 奏 | ||
招 詞 | 詩編100編1〜2節 | 司 会 者 |
頌 栄 | 29 | 一同起立 |
祈 祷 | 司 会 者 | |
主 祷 | 93-5 A | 一 同 |
交 読 | 詩編133編 | |
会衆祈祷 | 一 同 | |
聖 書 | ガラテヤ5章16〜26節 | |
使徒信条 | 93-4 1A | 一 同 |
牧会祈祷 | 川原﨑晃主管牧師 | |
宣 教 | 「キリストに属する者」 | 川原﨑晃主管牧師 |
祈 祷 | ||
賛 美 | 503 | 一同起立 |
感謝献金 | ||
奏 楽 | ||
頌 栄 | 27 | 一同起立 |
祝 祷 | 川原﨑晃主管牧師 | |
後 奏 |
宣教要旨
キリストに愛されている自分に出会い続けることは、信仰者にとって大切なことです。そのような信仰の自覚は、「キリスト・イエスに属する者」(24節)とされている自分に出会うことにつながります。
1.キリストのものとされている
キリスト者の自由に生きる者は(5章1~15節)、キリストに属する者となり、キリストのものとされて生きるのです。ところで、キリストのものとされるためには、キリストの十字架なしにはありえませんでした(1コリント6章19~20節参照)。それによって、キリストが永遠の主人となられたのです。
私たちは、キリストのものとされている自分に出会い続けることにより、今の自分が100パーセントキリストのものとされているとの自覚をもって生きるのです。
2.十字架につけられている
ここでいう「肉」とは、神に反逆させる罪を「情欲」と「欲望」に呼び込んでくるもので、キリスト者の中にも残存するものです。その「肉の行い」は、本能むき出しの性的な罪(19節)、神に対する敵対行為の罪(20節)、対人的に毒された感情(20~21節)、不節制で自分自身を破壊する罪(21節)などとなって明らかになっていきます。中でも「妬み」は人間の罪の核心部分にあります(26節、マルコ15章10節参照)。
私たちは、この「肉を情欲と欲望と共に十字架につけられ」ていることを信仰をもって受け取り、主の恵みによってその肉の働きと決別させていただくのです。そして、時々刻々、十字架につけられている自分に出会い続けて歩むのです。