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2020年7月

キリストを十字架につけたのは(2020.7.26)

聖書

そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。(ルカ23章25節)

礼拝音源(29.2MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 マタイ11章28節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 40編1~18節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ23章13~25節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 287 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「キリストを十字架につけたのは」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 441 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

キリストは、十字架に架けられて死なれました。その醜悪さは、十字架に架けられたキリストの醜悪さではなく、人間の罪の醜悪さを表しています。

1.私(たち)の罪が

一言で「罪」と言いますが、様々な形で表れます。祭司長たちと議員たちと民衆には、ねたみと怒りと憎しみがあります。ピラトには、恐れと責任転嫁をする優柔不断さがあます。これらが、キリストを十字架に架けたのです。

キリストの十字架の場に、私(たち)は居合わせませんでした。しかし、生ける唯一の神がいては都合が悪い、罪をさばくような存在は自分には必要ない、自分の思うことは何でもしてみたいといった神への反逆と自己中心の罪が、キリストを十字架に架けたのです。十字架は、私(たち)のこの醜悪な罪が露骨に表されたものなのです。

2.私(たち)の罪の身代わりに

しかし、十字架には、悲惨な醜悪な面だけではなく、もっと本質的な意味があります。キリストは、本来十字架刑を受けるべきであったバラバに代わって十字架にお架かりくださったのです。不思議にもバラバは、キリストの十字架の意味を世界に告げ示す生き証人となったのです。

キリストは、すべての人の罪の身代わりとなって死なれました。キリストは、私(たち)の罪を誰よりも恐れ、悲しまれながら、ご自身が死に定められたことを喜んで身に引き受けられたのです。私(たち)の信仰は、このキリストの十字架の前に立って歩み出すことから始まります。そこから、新しい生活が造られていくのです。

 

 

礼拝ご案内・行事予定(2020年8月)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉がわかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

 

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日) 第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:00
第2礼拝 :AM10:45 ~ 11:45
第3礼拝 :PM 5:00 ~ 6:00
○成人科プログラム (毎週日曜日) AM9:30 ~ 10:15 楽しい聖書の学び 1階集会室にて お話は毎回完結します。 いつでもお入りください。
2日(日) 第1聖日 平和聖日礼拝
「キリストが私たちの主」
エフェソ6:5~9
イサクの誕生
創世記18:1~15、21:1~8
鎌野 健一
9日(日) 第2聖日 礼拝
「十字架を担う者」
ルカ23:26~31
罪の赦しと恵み
マタイ9:1~8
山崎  勝
16日(日) 第3聖日 礼拝
「神の栄光をたたえる」
エフェソ1:1~14
弟子たちの派遣
マタイ10:1~16
増永  茂
23日(日) 第4聖日 伝道礼拝
「キリストは他人を救った」
ルカ23:31~43
祈りと証し
30日(日) 第5聖日 礼拝
「バズる福音」
マルコ3:7~12
嵐を鎮めたイエス
マタイ14:22~33
鎌野 健一

祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日)  AM 10:30 ~11:30、PM 7:00 ~ 8:00

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを神さまに感謝するものです。

8月行事予定

■ 2日(第1聖日)平和聖日礼拝 8月誕生者祝福 教会学校新任教師研修
■   9日(第2聖日)礼拝
■ 16日(第3聖日)礼拝 ギデオン・ラリー  教会学校新任教師研修  役員会
■ 23日(第4聖日)伝道礼拝
■ 30日(第5聖日)礼拝

9月行事予定

■ 6日(第1聖日)創立74周年記念感謝礼拝 洗礼式 9月誕生者祝福
■ 13日(第2聖日)長寿祝福礼拝
■ 20日(第3聖日)オープンチャペル
■ 27日(第4聖日)礼拝

捨てて得する(2020.7.19)

聖書

そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。(マルコ3章5節)

礼拝音源(28.5MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編124編8節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 34編1~23節
会衆祈祷 一  同
聖  書 マルコ3章1~6節
教団信仰告白 一同起立
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 205 一同起立
牧会祈祷 石﨑善土伝道師
宣  教 「捨てて得する」 石﨑善土伝道師
祈  祷
賛  美 511 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

前の章で、ファリサイ派と律法学者は、イエスと弟子に、「なぜ」「どうして」と4回質問しました。イエスはそれに答えるようにして、ご自身が何者であるか、罪を赦し、罪人を招き、花婿であり、安息日の主である事を示されました。

1.イエスの質問
3章に入って、遂にイエスの方からファイリサイ派と律法学者に、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」と、質問されました。この答えは当然、善を行うこと、命を救うことです。ところが、彼らは黙っていました。命を救う医療行為は、律法に反する、安息日に行ってはいけない労働だと思っていたからです。この事から彼らは、イエスを殺すことを決心します。イエスが、彼らの期待する救世主の言動とは異なったからです。

2.なぜ殺すことにしたのか
誰でも、様々な事で期待と実際のギャップに失望し、苛立ち、悲しみ、怒る事があります。それがかたくなな心となって譲れなくなったとき、人を傷つけ、罪を犯してしまいます。彼らはイエスにその思いを向け、イエスを拒んでしまいました。

3.かたくなな心を捨てて神の恵みを得る
ファリサイ派と律法学者の姿は、他人事ではありません。私のうちにも、神の御心に対する思い込みや勘違い、期待とのギャップによる苛立ちや失望があります。さらにかたくなにさせるプライドがあります。イエスは悲しみつつ、かたくなな心を捨て、従ってくる事を待っておられます。イエスの質問に、あなたはどう応えますか。

 

キリストの前に立って(2020.7.12)

聖書

それで、いろいろと尋問したが37、イエスは何もお答えにならなかった。(ルカ23章9節)

礼拝音源(29.3MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 イザヤ43章1節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 33編1~22節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ23章1~12節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 166 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「キリストの前に立って」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 448 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

主イエスは、ユダヤ人による宗教的な罪に対する裁きと(22章66~71節、23章6~12節)、ローマによる政治的な意味を持つ裁判を受けられました(23章1~5節、13~25節)。この裁判において、主イエスは、語ることと沈黙すべきことを区分されました。

1.語られるキリストの前に立って
最高法院の祭司長たちや律法学者たちは、キリストが自らを「神の子」と語られたことに対して、怒りをあらわにしました(22章66~71節)。
続いて、ユダヤの全会衆が、主イエスはローマの反逆罪を犯しているとローマ総督のピラトに訴えました。それに対してピラトは、主イエスを彼らが訴えているような王ではないと判断して無罪を言い渡しましたが(23章1~4節、ヨハネ18章36~37節)、人を恐れて主イエスを裁くことになったのです(23章5節、マタイ27章24節、マルコ15章15節)。このような恐れは、人に疑惑と悪の思いを生じさせます。

2.沈黙されるキリストの前に立って
主イエスが何もお答えにならなかったことに戸惑い、不思議に思ったのはピラトです(マルコ15章5節)。これまで、主イエスは、意味のない議論の挑発やののしりに対して沈黙されました(22章63~65節)。そして、ヘロデの単なる好奇心や興味からくる求めに対して沈黙されました(23章8~9節)。彼には、主イエスが語られることを受け入れようとする気持ちはなかったからです(23章11節)。
これは、主イエスが無力であったからではなく、愛のあまりに黙されたのでした。その極みが、私たちの救いの完成となった十字架の沈黙です(1ペトロ2章22~24節)。

 

 

キリストを中心として(2020.7.5)

聖書

子どもたち、主にあって両親に従いなさい。それは正しいことだからです。(エフェソ6章1節)

礼拝音源(29.4MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編46編10節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 32編1~11節
会衆祈祷 一  同
聖  書 エフェソ6章1~4節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 396 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「キリストを中心として」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
7月誕生社祝福 詩編100編1~2節
賛  美 546 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

教会は、あらゆる違いを超えて兄弟姉妹とされた者たちが集められています。支配者と被支配者を作り出すところではありません。ですから、妻も夫も、子供も両親も互いに兄弟姉妹と呼び合い、愛の関係を築き合うのです。

1.主にあって  1~3節
子供と両親の関係は、世の中の親子関係ではありません。キリストを中心として、兄弟姉妹の関係に生きるように召されています。ですから、子供に「両親に従いなさい」と命じるのです。それは、両親を敬って、両親が語る言葉に聞き従う姿勢を表しています。「それは正しいこと」だからです。
このように両親に従うことは、有無をも言わさない服従を意味しているのではありません。主イエスが天の父を愛し敬う仕方で天の父に聞き従われたように、子供は「主に結ばれている者」すなわち「主にあって」両親に向き合い聞き従うのです。それが、幸いをもたらす生き方であり、神のご厚意から与えられるのです(3節)。

2.主がなさったように  4節
同様に両親も、主にあって子供に向き合うのです。そして、特に父親は、信仰に基づく信念をもって、教え導くのです。それが、威圧的で独善的であれば、子供に反発と怒りを抱かせるでしょう。「主にあって」とは「主がなさったように」との意味があり、父親は、主の仕方を意識し、主の愛に倣おうとする姿勢が求められます。

こうした親子の関係は、兄弟姉妹の関係においても同様です(5章21節)。そこには、共に十字架のもとにひざまずき、天の御国を目指して旅する神の民の姿があります。