宣教題 「主に望みをおく年」 宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 イザヤ40章27~31節
「主に望みをおく人」は、神の摂理の導きの中にあって、主を待ち望む人のことです。神の民イスラエル同様に、なぜ今日の私たちが、主を忍耐をもって待ち望み、主に信頼をおいて待ち望むことが大切なのでしょうか。
1.主は慰めの神であるから
イザヤは、神の御言葉を取り次いでいます。神の民の神への不信仰と不従順のゆえに、バビロン捕囚を経験させることと、その後70年を経過して神の民を回復させ、神の救いを経験させることとを語られました。この間、神の民は、神に疑念を抱き、虚無的になっていくのです。それに対して神は、「慰めよ、慰めよ、わたしの民を慰めよ」とのメッセージを告げられたのです(1節)。
神は、解放者である慰めの神(2~5節)、羊飼いのような慰めの神(6~11節)、創造者である慰めの神(12~26節)、永遠者である慰めの神(27~31節)です。そのことは、イエス・キリストを通して今日の私たちにも明らかにしておられます。
2.再創造してくださる神であるから
神の民が、自分たちは神に顧みられていない、忘れられていると嘆くことに対して、神は永遠まで全部見通しておられることを明らかにされています(27~28節)。
そして、若者が倦み疲れ、勇士がつまずき倒れるような状況におかれても、神は彼らを造り変え、再創造してくださるのです(29~31節)。
罪と汚れと死の恐れから解き放ち、御言葉をもって懇ろに導き、永遠から永遠までおられて造り変えてくださる創造主こそが、イエス・キリストです。この方に望みをおき、任せて従っていくことが、最も恵まれた信仰の経験となるのです。
聖書朗読(0.4MB)
メッセージ(11.7MB)