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2018年4月

イエス様はわたしの羊飼い(2018.4.29)

宣教題  「イエス様はわたしの羊飼い」  宣 教  今田好一牧師
聖 書  ヨハネ10章1~15節

 イエス様はここで、羊飼いと羊との関係をたとえて、ご自身が人々を導くまことの羊飼いであり、羊を守る囲いの門であることを示そうとされたのです。

1.イエス様は良い羊飼い
 イエス様は、ご自身が「良い羊飼いである」と羊飼いと羊のたとえを用いて語られました(1~5節)。しかしその話が分からないファリサイ派の人々に、ご自身が「羊の門」であると、更にたとえを用いて話されました(7~10節)。このたとえはどういう意味なのでしょうか。第一に、イエス様こそが正しい救いの門であることを、第二に、永遠の命を与えるお方であることを示しています。そして更に「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(11節)と、イエス様が羊であるわたしたちのために命を捨てられることを預言されました。このたとえ通り、イエス様はわたしたちの罪の身代わりに十字架にかかり死なれたのです。

2.わたしたちは羊
 人間は、羊のように一人では生きていけない、目標も分からず、迷いやすい弱い存在です。だから、そんなわたしたちを養い、守ってくれる羊飼いが必要なのです。 聖書は、わたしたちに「良い羊飼い」が誰であるかを教えています。それがイエス・キリストです。イエス様は、神について、永遠について完全に教えてくださるお方、わたしたちを罪から救い、死に勝利させてくださるお方、わたしたちを正しく導くことのできるお方です。何故ならイエス様は、わたしたちを愛し、わたしたちの罪を赦すために十字架にかかってご自身の命を献げられた「良い羊飼い」だからです。そして、三日目によみがえり、わたしたちに永遠の命を与えてくださるお方なのです。

聖書朗読(0.8MB)

メッセージ(11MB)

礼拝ご案内・行事予定(2018年5月)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び 1階集会室にて
お話は毎回完結します。
いつでもお入りください。
6日(日) 第1聖日 礼拝
「歓喜する力」
ヤコブ3:1~12
罪人を招くキリスト
ルカ5:27~32
鎌野 健一
13日(日) 第2聖日 母の日礼拝
「恵みによる飾りを」
ルカ14:7~11
祈りと証し
20日(日) 第3聖日 ペンテコステ感謝礼拝
「大いなる委託」
ルカ24:44~49
聖霊降臨の約束
使徒1:3~8
山崎 勝
27日(日) 第4聖日 伝道礼拝
「人を引きつける魅力」
マルコ3:7~12
幼子サムエル
サムエル上3:1~14
真田 重治

祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日)  AM 10:30 ~12:00、PM 7:00 ~ 8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

 

5月行事予定

6日(第1聖日)礼拝 聖餐式 5月誕生者祝福
13日(第2聖日)母の日礼拝 銀婚式
20日(第3聖日)ペンテコステ感謝礼拝 洗礼式  バルナバ・ミッション祈祷会
27日(第4聖日)伝道礼拝  質問受付会

6月行事予定

3日(第1聖日)礼拝 6月誕生者祝福  教会総会(定期総会)
10日(第2聖日)花の日礼拝、聖餐式
17日(第3聖日)父の日礼拝・伝道礼拝 Happy Sheep
24日(第4聖日)海外宣教日礼拝

安息の中に憩う(2018.4.22)

宣教題  「安息の中に憩う」        宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ14章1~6節

 主イエスが、安息日の食事の席に行かれたときでした(1節)。そこには、水腫を患っている人、イエスの様子をうかがっている人々がおり、緊張した食事であったと思われます。そのような中で、主イエスは、安息の中に憩えるように導かれました。

1.安息に招かれる主イエス 
 ルカによる福音書には、主イエスが安息日にいやす御業をなされ、それが人々の反感をかうという出来事が語られています(6章6~11節、13章10~17節、14章1~6節)。それらは、時間の経過とともに、着実に主イエスが勝利されていくお姿が分かります。この場面では、人々が一言も語ることができなかったという状態でした。
安息日の主であるイエスは、安息日が「元気を回復するため」にあることを明らかにされたのでした(出エジプト23章12節)。安息に招かれる主イエスが、私たちを新たに立ち上がらせてくださるのです(マタイ11章28節)。

2.いやし安息を与える主イエス 
 主イエスは、ご自分の前に水腫を患ったまま放置されていることに心を痛められ、いやされました(4節)。人が病んでいる姿は、今も変らず、神との関係が正しくない状態であったり、男女の関係や社会における人間関係の倫理が失われていたりする状態となって表れます。その状態をそのまま放置しておけない主イエスは、ご自身の救いの恵みをもっていやし、安息を与えられます。
 一人ひとりがそのいやしに与るためには、自らの無力を認めて、主イエスに対する信仰を持つことです。そして、主イエスが心に手を置いていやされる恵みの御業に委ね、与えてくださる安息にあずかることです。

聖書朗読(0.4MB)

メッセージ(10MB)

力ある信仰(2018.4.15)

宣教題  「力ある信仰」         宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ2章14~26節

 主イエスの救いに与るのは、どのような善行も必要ではなく、ただ信仰によります
(エフェソ2章8~9節)。その救いに与ったのには目的があり(同10節)、信仰者の生活に変化が起こります。それをヤコブは、力ある信仰として表れると言っています。

1.信仰が生きている  14~19節
 親しみをこめて「わたしの兄弟たち」と語りかけるヤコブは、祝福された信仰者の歩みについて述べています。行いの伴った信仰こそ、生きたものであり、役に立つということです(14、17、20、26節)。それは、信仰と行いが、ひとりの人格の中で一緒になってバランスがとれていることです。
 私たちの行いが、口だけをもってのものではなく(15~16節)、聖霊によって一人ひとりの心に注がれている神の愛をもってなされるときに、その信仰は本物といえるのです(1コリント13章3節)。

2.神を信頼して生きる  20~26節
 信仰によって義と認められた者の歩みは、神を信頼して生きる行いが伴ってきます。それは、アブラハムのように(21~23節、創世記22章参照)、またラハブのように(25節、ヨシュア記2章参照)、確かな神の助けと最善の導きがあるとの信仰のともなった行いです。信仰は行いの原動力であり、行いによって信仰が表され、さらに行いによって信仰がまっとうされるのです(22節)。
 私たちの信仰が、今までより以上に生活の中で行いとなって溢れていくことにより、主イエスご自身とその恵みをさらに豊かに知ることができるという経験をさせていただけるのです。

聖書朗読(1.1MB)

メッセージ(9.8MB)

主の御心はどこにあるのか(2018.4.8)

宣教題  「主の御心はどこにあるのか」     宣 教  今田好一牧師
聖 書  マルコ3章1~6節  レビ19章18節b

イエス様が会堂に入って礼拝を守られました。しかし、この日、会堂に集まった人々のまなざしは天に向けられていませんでした。

1.神を愛し、人を愛する
 安息日の礼拝に片手の萎えた人が来た時、イエス様はこの人を癒されました。それは人々に律法を守ることで、神の御前にその正しさを主張する信仰が根本的に間違っていることを示すためでした。そして、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」を全うするために律法は機能しているのだということを示されたのです。

2.沈黙という拒否の末に
 人々はイエス様の問いに「黙っていた」のです。彼らは、イエス様が言われるようには変わりたくなかったのです。しかし、イエス様が求めておられるのは「変わる」ことです。それは、今のわたしたちにも『あなたは変わらなければならない。』と言われているのです。この時、人々はイエス様の招きを拒否し、黙ってしまいました。その結果、彼らは、イエス様を殺すというところに至ったのです。

3.イエス様の招きに応える
 イエス様が、神を愛し、人を愛し、人に仕えることを明確に示されたのが十字架です。イエス様は今も「わたしに従って来なさい」とわたしたちを招いておられます。この招きにわたしたちが応えた時、神に向かって、隣人に向かって踏み出して行くことができるのです。そこに神の国への道が開かれるのです。
 自分のことしか愛せないようなわたしたちですが、イエス様の招きに応えて、神と隣人とを愛する者へと踏み出させていただきましょう。そこに主の御心があるのです。

聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(7.7MB)

進み行かれる主(2018.4.1)

宣教題  「進み行かれる主」     宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ13章31~35節

私たちは、主イエスが死の闇から復活され、命の輝きをもたらしてくださったことを感謝するとともに、全存在をもって主イエスに向かって生きることが大切です。

1.神の時を進まれる主イエス  31~33節
主イエスご自身の歩みを決定したのは、ヘロデに代表されるこの世の悪の力によるのではなく、父なる神のご計画によるものでした。この時、エルサレムへの旅路を十字架に向かって進んで行かれました。その先には、主イエスが「三日目にすべてを終え」て復活されることにより、「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」と決意しておられます。
主イエスは、十字架を前にして父なる神の御心だけを求めて歩み進まれ(ルカ22章42節)、復活されてご自身の御働きを進められました(マタイ28章16~20節)。

2.愛の完成へと進まれる主イエス  34~35節
主イエスは、神の御言葉を受け入れようとしない者たちを、何度もご自身の救いの中に招き入れようとされてきました。ご自身の愛を冷ややかに拒む者に対して、苦悶し、嘆いておられます(34節)。しかし主イエスは、そうした中にあっても父なる神のご計画の中を進んで行かれました。ひたすら十字架と復活に向かうことにより、愛の完成を目指して進んで行かれたのです。
このことを知る教会は、今や「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と賛美しつつ、主の再臨の時に向かって進んでいます(35節)。ですから私たちは、一人でも多くの人々が心の底から同じように賛美できる時が来るよう、伝道に励みたいものです。

聖書朗読(0.6MB)

 

メッセージ(6.9MB)