メニュー 閉じる

2017年11月

礼拝ご案内・行事予定(2017年12月)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び 1階集会室にて
お話は毎回完結します。
いつでもお入りください。
3日(日) 第1聖日 第一待降節伝道礼拝「思いがけなく来られる神」
マラキ3:1~5
インマヌエルの福音
イザヤ7:1~17
鎌野 健一
10日(日) 第2聖日 第ニ待降節礼拝「あなたを待っておられる主」
ヨハネの黙示録3:17~20
救い主誕生の預言
イザヤ9:1~7
大塚 章信
17日(日) 第3聖日 第三待降節礼拝「主の天使が命じたとおり」
マタイ1:18~25
ヨセフへの告知
マタイ1:18~25
山崎 勝
24日(日) 第4聖日 クリスマス感謝礼拝「神の愛の冒険」
ヨハネ3:16~21
休会
31日(日) 第5聖日 年末感謝礼拝「恵によって、今の私に」
1コリント15:3~10
感謝の生活
コロサイ3:15~16
増永 茂

祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日)  AM 10:30 ~12:00、PM 7:00 ~ 8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

 

12月行事予定

3日(第1聖日)待降節礼拝 聖餐式 12月誕生者祝福  チラシ配布  役員会
10日(第2聖日)待降節礼拝
17日(第3聖日)待降節礼拝  各CSクリスマス祝会 Happy Sheep
23日 JYクリスマス祝会
24日(第4聖日)クリスマス感謝・伝道礼拝 洗礼式 クリスマス祝会 クリスマスイブ礼拝
27日 年末感謝祈祷会
31日(第5聖日)年末感謝礼拝

1月行事予定

1日(月) 元旦礼拝
7日(第1聖日)成人祝福礼拝 聖餐式 1月誕生者祝福 成人祝福式
14日(第2聖日)礼拝 ダイヤモンド婚・金婚式
21日(第3聖日)伝道礼拝 バルナバミッション祈祷会
28日(第4聖日)礼拝 質問受付会

背負ってくださる主(2017.11.26)

宣教題 「背負ってくださる主」       宣教  今田好一牧師
聖 書 イザヤ書46章1~4節 / マタイ11章28節

わたしたちにとって、老後のことはとても切実な問題です。でも、もし十分な備えができなくても神を信じる者にはすばらしい保証があります。それは神の約束です。

1.人それぞれが背負っているもの
 わたしたちには誰も代わることのできない、自分で負うしかない重荷があります。そして負いきれずに押しつぶされそうになることがあります。だからこそ、優しく寄り添ってくれる存在が必要なのです。それが、主イエス・キリストなのです。

2.人に背負われている神々
 バビロン捕囚となっていたイスラエルの民は、傷ついた心の中で、バビロンの神々が動物や人に背負われている勇壮で華々しい祭りを見ていました。しかしペルシアによるバビロニア帝国の崩壊の危機に際して、バビロンの守護神であるベルとネボは守護どころか、それを負う人々の重荷となり、ペルシアに仕えることになるのです。

3.人を背負ってくださる主
 主なる神は、イスラエルの民に、「あなたたちは生まれた時から負われ・・・老いる日まで白髪になるまで・・・わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:3~4)と言われました。それはわたしたちの過去、現在、未来にかけてのすべてであり、わたしたちの歩みの最初から終わりまで神の守りの中にあるということなのです。

 全世界の多くの人々が老後の生活に不安を覚えている現代において、神の約束はいよいよ大きな力となります。そして、わたしたちが歳を重ねていく中で、主に背負われていることを素直に認め、「わたしは・・・背負って行こう」と言ってくださる主に人生をお委ねしましょう。きっと平安で満たされることでしょう。

解放される道(2017.11.19)

宣教題 「解放される道」       宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ13章10~17節

 ここに、ただ主イエスの憐れみにすがっている女性がいます。彼女は、十八年の間体がかがんだまま伸ばすことができない病気でしたが、主イエスによってそこから解放されたのでした(10~13節)。

1.主イエスは安息日の意味を回復された 
 会堂長は、主イエスが安息日に癒しの業をなされたことを非難しました(14節)。本来安息日は、神が世界の王であることを覚え、すべてのものが休み、すべての人
が神の前に公平とされ、神の約束を覚える日でした。ところが当時、そのことが歪曲
されていたため、主イエスは元に戻して神の愛を知る日とされたのです。主イエス
は、この時解放のメッセージを語られていたと思われます(ルカ4章16~20節)。
主イエスは「捕らわれている人に解放を」告げ知らせ(ルカ4章18節)、解放の御
業をなされるお方です。

2.主イエスは解放の御業をなされた 
 主イエスは、病気から解放された女性が大事な「アブラハムの娘」であるので、「サタンに縛られていた」ところから本来の姿に解放されたのでした(16節)。パウロも同様のことを証ししています(2コリント12章7~10節)。
 主イエスは、「罪と死との法則から」解放されることから始まって(ローマ8章1~2節)、人がもっている深い劣等感などの弱さから解放される道を開いてくださるお方です。ですから、私たちは主イエスを信頼し、主イエスに支えられて、真っ直ぐに立ち続けるのです。この主イエスに出会い、その憐れみに与るのが、私たちの安息日であるこの礼拝の時なのです。

子どもを祝福されるイエス様(2017.11.12)

宣教題 「子どもを祝福されるイエス様」   宣教 今田好一牧師
聖 書 マタイ19章13~15節

 子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されているイエス様の姿は、わたしたちの心を温かくしてくれる。しかし弟子たちは、子どもたちを連れて来た人々を叱った。

1.子どもたちを退ける
 当時のイスラエル社会では、律法を守ることが何よりも大切である。子どもたちは、律法を理解できず、守ることもできないため、完全な人間として受け入れられずにいた。だから弟子たちは、子どもを連れて来た人々を叱った。しかし、イエス様は子どもたちを前にして、「天の国はこのような者たちのものである」と言われた。

2.条件付きの世界と無条件の世界
 当時、多くの人々が律法を厳守し、「もし~ならば」という条件付きの世界を生きていた。わたしたちはもはや律法を厳守することはしないが、それに共通する姿勢でいることが多いのではないだろうか。しかし、イエス様が言われた「天の国」とは、無条件の世界を指しているのであり、その世界に生きることで、わたしたちは生きる力を得、再び立ち上がっていく力を得ることができるのである。

3.子どもたちを祝福される
 子どもたちにとって何よりも重要なのは、無条件で自分を受け入れてくれる存在であり、そこに信頼が育まれてこそ、子どもたちが活き活きと成長していけるのである。イエス様は子どもたちを、あるがままに受けとめ、祝福されたのである。
 イエス様が親たちに連れて来られた子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されたように、わたしたちをその腕で抱き上げ、祝福しておられるのである。そして、『あなたが存在し、生きていてくれることが、何よりの価値である』と言われているのである。

思い違いをしないように(2017.11.5)

宣教題 「思い違いをしないように」    宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヤコブ1章12~18節

 主イエスを信じた者たちが「試練」の中に置かれることにより、それが「誘惑」となってしまうことがあります。その誘惑に対して「思い違いをしてはいけません」し(16節)、神がどのようなお方かを見通し、見極めることが大切です。

1.神のさばきを見通すように  13~16節
 信仰者として歩んでいこうとすると、誘惑に遭うという経験をします。神が罪の誘惑をされるのではありません。ただし神は、信仰者が誘惑に遭うことを許してはおられます。ですから、誘惑を甘く見るといった思い違いをしてはなりません。
 というのも、誘惑へと誘う「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生」むからです。その死とは、神を離れた状態の霊的な死です。罪の結果である死をしっかり見通すとともに、神は義なるお方ですから、罪を正しくさばかれることを忘れてはなりません。罪と死に対して、人間の側からの解決はないからです。

2.神の賜物と御心を見極めるように  17~18節
 さばきの神を知ることで終わるならば、絶望に陥ります。しかし、そのような思い違いをしてはいけません。神の賜物は、それを贈る動機において不純でなく、良いものであり完全です。この創造者である神は真実であられ不変のお方です(17節)。その神の賜物中の賜物は、主イエスです。

 神は「御心のままに」、主イエスとその福音によって私たちを新たに生まれさせ、神の子としてくださり、神のものとしてくださいました。そのことが、神が造られた被造物の「初穂となさる」ためであったとは驚くべきことです(18節)。
私たちは、この神の賜物と御心をしっかりと見極めた信仰の歩みをするのです。