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2017年3月5日

主は心を見られる(2017.3.5)

宣教題  「主は心を見られる」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ11章37~44節
人は、目に見える外側のことがらに気遣いをし、内側とりわけ心の状態に対する気遣いをすることにはおろそかになりがちです。主イエスは、ファリサイ派の人たちだけでなく、全ての信仰者の心が清められ続けることを求められるお方です。

1.あなたの心は汚れていませんか
主イエスは、ファリサイ派の人たちとの交わりを持たれながら、「あなたたちは不幸だ」と三度も語られました(42~44節)。彼らは、「外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちて」いたからです(39節)。十分の一の献げ物をするが、人に対する誠実な態度と、神への真実な信頼の心があるかと問いかけておられます(42節)。虚栄と自己中心の心でないかと問いかけておられます(43節)。気づかないで罪を犯している心の状態を問いかけておられます(44節)。
主イエスは、不幸な姿を告げることによって人を退けられるのでなく、汚れた心の状態であることを気づかせるために促しておられるのです。全ての動機は、主と人への愛からですか、それとも自分自身の欲からですか。

2.清めてくださる主を仰ぎ続けていますか
神は、人の体(外側)をお造りになられました。また人の心(内側)をもお造りになられましたので、汚れている人の内側を造り変え、他者に施しをすることに対しても喜んでさせていただけるように清くしてくださるお方です(40~41節)。人は、それによって成長していくのです。
私たちは、主イエスによって造り変えられ、心を清くし続けていただく必要があります。主イエスが十字架で流された血潮は、私たちの罪を清め続ける力があります(1ヨハネ1章7節)。ですから、私たちは主イエスの十字架を仰ぎ続け、十字架の血潮に信頼し続けるのです。