宣教題 「支配から解き放たれる」 宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書 マルコ10章35~45節
1.だれかを支配し、なにかに支配されている人間
私たちはさまざまなものの影響を受け、それに支配されている。それは、イエスの弟子たちも同じであった。政治を司る多くの人たちは、他の人を支配する立場に立とうと懸命な努力をしてきた。イエスの弟子であったヤコブとヨハネも、イエスが王となった時に他の人たちを支配したいと願い、それを実現しようと一生懸命であった。他の弟子たちは、彼らの抜け駆けに腹を立てたが、それは彼らと同じことを願っていたからだ。皮肉なことであるが、イエスの弟子たちはみな、「だれかを支配する者になりたいという願いに支配されていた」。そして、当時の多くの政治家たちがそうであったように、そのような彼らに待っているのは、権力闘争という、地獄のような歩みであった。
このようにして、だれかを支配している人、そしてだれかを支配したいという欲求に支配されている人は、最終的には罪という借金に支配され、やがて自分から壊れて行くのだ。他人事ではない。
2.人を自由にする、自由なイエス
イエスは全く自由な方であった。だから、「仕えられるためではなく仕えるため」(45節)に来られ、仕えることによって、だれかに従属することを選ぶことができた。自由だからこそ、自ら進んで、十字架にかけられたのだ。すべての人間の罪という借金を帳消しにするため(「贖いの代価」)にそのことを選ばれた。その結果、私たちの罪の借金はイエスの十字架によって帳消しにされたのだ。
借金の棒引き宣言、つまり罪からの解放宣言がイエスから出されている。これを受け入れるならば、私たちはだれかを支配しようとする罪からも、だれかに支配されている奴隷状態からも自由となる。罪がゆるされるのだ。そのために必要なのは、このことばを語られたイエスを信頼すれことだけ。この信仰によって「すべてのものの上に立つ自由な主人」となることができる。だからこそ、「すべてのものに仕えることのできる僕」となって、自由に生きることができる。地上で天国を味わう人生へと変わるのである。