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2016年12月

クリスマスの驚き(2016.12.25)

宣教題  「クリスマスの驚き」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨハネ1章14節
クリスマスのストーリーには驚きが満ちている。マリヤに神の使いガブリエルが受胎を告知すること、ベツレヘムでの誕生、羊飼いたちに表れた神の使いたち、占星術の学者たちの登場。普通では起こらないようなことが連続して起こる。

1.言が肉になることの驚き
クリスマスの最大の驚きはなんだろうか。それは、言が肉となること(14節)、神である方が人となられた事実である。限界だらけで、何かに頼らなければ生きていけず、死が訪れる人に、限界などなく、弱ることもなく、完全な方、死ぬ事などない方がなられたのだ。神が極限まで、自ら進んで低くなられた姿に驚きを覚える。そして、この方はわたしたちの間に宿られたのだ(14節)。人には近づくことなどできないはずの方を、実際に見て、その方に触ることができるようになった。そして、私たちは神がどのような方であるか知ることができるのだ。

2.神のわざを知る驚き
神が人となって私たちの間に宿られたのは、なぜだろうか。それは、「神が人となられた」ことが生み出す大きな衝撃波がこの地上のあらゆる場所、あらゆる時代に行き渡らせるためである。事実、イエスは社会的弱者、貧者、病人のところに行き、自己欺瞞の人々に徹底的に反対し、自分を殺そうとしている人をゆるし、全世界のすべての悪をご自身の身に負い、死に、三日目に死人のなかから復活された。その生涯を通して大きな衝撃を与えた。そして、世界を変えられた。
「世界はなにも変わっていない」と思われるかもしれない。それは、あなたがイエスの生涯に表された驚きに気がつかず、そのあと、二千年間でこの世界に起こった驚きに気がつかないからだろう。この驚きに気がつかないから、あなたの人生は変わっていない。だからこそ、このクリスマスに、もう一度、その驚きに目を向けようではないか。神が人となられた驚きに気がついたあなたの人生は特別なものとなる。

礼拝ご案内・行事予定(2017年1月)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び 1階集会室にて
お話は毎回完結します。
いつでもお入りください。
1日(日) 第1聖日 元旦礼拝「主に信任されて」
使徒言行録2:41~47
休会
8日(日) 第2聖日 成人祝福礼拝「神の臨在に触れて」
イザヤ6:1~13
わが助けはどこから
詩篇121:1~8
鎌野 健一
15日(日) 第3聖日 礼拝 「うれしい知らせ」
1テサロニケ3:1~10
実を結ぶ生涯
詩篇1:1~6
真田 重治
22日(日) 第4聖日 伝道礼拝 「支配から解き放たれる」
マルコ10:35~45
主はわたしの牧者
詩篇23:1~6
増永 茂
29日(日) 第5聖日 礼拝 「福音の光に照らされる」
ルカ11:33~36
若い日に造り主を覚えよ
詩篇12:1~14
大塚 章信

祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日)  AM 10:30 ~12:00、PM 7:00 ~ 8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

1月行事予定

1日(第1聖日)元旦礼拝
8日(第2聖日)成人祝福礼拝 聖餐式 1月誕生者祝福 成人祝福式 エノク会例会
15日(第3聖日)礼拝 プラチナ婚・ダイヤモンド婚式・金婚式 婦人会・壮年会例会 役員会
22日(第4聖日)伝道礼拝  バルナバ・ミッション祈り会
29日(第5聖日)礼拝  質問受付会 臨時役員会

2月行事予定

5日(第1聖日) 教会総会礼拝 聖餐式 2月誕生者祝福  教会総会(定期総会)
12日(第2聖日) 礼拝  役員会
19日(第3聖日) 聖会礼拝  神戸ケズィックコンベンション(春の聖会)
26日(第4聖日) 伝道礼拝(神学生壮行礼拝) 各会総会

神の子とするために(2016.12.18)

宣教題  「神の子とするために」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ガラテヤ4章1~7節

「時が満ちると」とは(4節)、神ご自身がご計画の中で最善と思われた歴史の一点であり、すでに旧約の時代から預言されてきた救い主の来臨の時が満ちたということです。それが、クリスマスの時であり、キリストが私たちを「神の子となさるため」(5節)に遣わされて来られたのです。

1.キリストの贖いによって
人は、被造物を神として、それらに縛られまた依存して、その奴隷となっていました。そこから解放するために、神は御子イエス・キリストを遣わされたのです(3~4節、8節)。この御子は、人とおなじように「女から」生まれなさり、罪を除いて、すべての弱さ、痛み、悲しみを人と共に背負われたのです。ここにも、私たちは神の愛を見るのです。
それだけではなく、御子は、十字架において律法の裁きを人に代わって背負ってくださったことにより、「わたしたちを神の子」としてくださったのです(5節)。この事実を自覚しつつ、信仰の歩みをすることが必要です(7節a、3章26節)。

2.父なる神への全面的な信頼をもって
神の子とされた者は、神の愛を信頼して、神と共に歩むようになります。それは、父なる神を「アッバ、父よ」と全面的な信頼を込めて呼びかける関係に生きることなのです。この恵みは、今の私たちの心にも聖霊を遣わしてくださっていることによって、同じように「アッバ、父よ」と信頼して祈ることができるのです(6節)。
しかも、神の子として「神によって立てられた相続人でも」あり(7節b)、「神の国を受け継ぐ」(5章21節)者なのです。神の子とされた者は、このことを支えとして、そこに望みを置きつつ、地上の人生を歩むのです。このように、私たちは神との交わりを親しくさせていただきつつ、神への全面的な信頼に生きるのです。

主の貧しさと私たちの豊かさ(2016.12.11)

宣教題  「主の貧しさと私たちの豊かさ」       宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  2コリント8章1~9節

クリスマスの主の誕生は「飼い葉桶の中に」(ルカ2章12節)おいてでしたが、ここに「身を無にし」(フィリピ2章6~7節)、「貧しくなられた」(2コリント8章9節)お姿が現れています。それによって、わたしたちが「豊かになるためだったのです」。これが「主イエス・キリストの恵み」です(9節、2コリント13章13節参照)。

1.キリストの貧しさ
本来、「主は豊か」なお方です。キリストこそが、万物一切の創造者、所有者、支配者であられ(ヨハネ1章3節)、愛と恵みをお持ちの神であられます(同18節)。
このお方が、「あなたがたのために貧しくなられた」のでした。すなわち、天地の主なる神の独り子が、処女の胎に宿られてこの世に生まれてくださいました。罪を他にして人が経験する同じことを経験してくださいました。地上の最後においては十字架に架けられて命を与え尽くし、すべての人の罪の身代わりになって神に捨てられてくださいました(マタイ27章46節)。キリストは、これほどまでの貧しさの極限にまで至ってくださったのです。このキリストご自身を知っているかと問われています。

2.私たちの豊かさ
このような驚くべき犠牲は、ひとえに私たち罪人のためでした。一人ひとりが自ら罪人であることを認め、その罪を悔い改めてキリストを信じるならば、罪は赦され、神の子とされ、永遠の命を与えられ、永遠の栄光にあずかるという神の豊かさをいただいた新しい歩みが始まるのです。
このキリストの恵みが本当にわかったならば、「慈善(恵み)の業においても豊かな者」とされるのです(7節)。それは、私たちの献身の表明である献金の恵みです(5節)。私たちが、キリストの恵みに富み続けるならば、その心から出る感謝と喜びをもって献金や奉仕に恵まれ続けていくのです。

キリストを着る(2016.12.4)

宣教題  「キリストを着る」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ローマ13章11~14節

クリスチャンは、キリストを信じ受け入れ、キリストに結び合わされ、キリストを着て歩む生き方をします(ガラテヤ3章27節)。このキリストを着るとは、どういう生涯なのでしょうか。

1.神の時を知る  11~12節a
待降節は、すべての最後に再臨されるキリストを待望する備えをする時です。この時は、全世界に分かるように来られます(1テサロニケ4章16節)。人は、死を迎える時、人間社会や自然界にさまざまな変化が起こる時を知っています。あわせてクリスチャンは、キリストが再臨される神の時すなわち救いが完成する時を知って、「今がどんな時であるかを知って」いるのです。
私たちは、様々な課題、問題、困難、苦難、試練に遭遇します。神の時を知る者は、それらにがんじがらめにされて、動きがとれないようになるのではなく、それらの真っただ中に身を置きながらも、神の救いの世界を仰ぎ見るのです。

2.神の御前に立つ備えをする  12節b~14節
また、神の時を知る者は、罪の支配する世界において「闇の行いを脱ぎ捨て」、信仰とその生き方において無感覚にならず、男女の在り方において恥ずかしい生き方をせず、人と争うことをしません(12節b、13節b、14節b)。そして、「光の武具を身に着け」て、この世と妥協することなく「品位をもって」正直でつつましく歩むようにします(12節b、13節a)。このようにキリストを着て生きるのが、最も安全であり、そこに本当の平安と喜びがあるのです。
そのためには、十字架に死んで復活された「主イエス・キリストを身にまといなさい」との招きに応答して、終わりの裁きの時に義とされ、神の御前に立つ者とさせていただきましょう(マタイ22章1~14節)。