礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。
◎ 主日礼拝 (毎週日曜日) 第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15 第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00 第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00 |
○成人科プログラム (毎週日曜日) AM9:30 ~ 10:15 楽しい聖書の学び 1階集会室にて お話は毎回完結します。 いつでもお入りください。 |
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4日(日) | 第1聖日 第ニ待降節礼拝「キリストを着る」 ローマ13:11~14 |
神の小羊なるキリスト ヨハネ1:29~37 鎌野 健一 |
11日(日) | 第2聖日 第三待降節礼拝「主の貧しさと私たちの豊かさ」 2コリント8:8~11 |
主を証ししたアンデレ ヨハネ1:37~42 増永 茂 |
18日(日) | 第3聖日 クリスマス感謝礼拝 「神の子とするために」 ガラテヤ4:1~7 |
休会 |
25日(日) | 第4聖日 クリスマス伝道礼拝 「クリスマスの驚き」 ヨハネ1:14 |
神のプレゼント ヨハネ9:16~21 大塚 章信 |
祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日) AM 10:30 ~12:00、PM 7:00 ~ 8:30
祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。
12月行事予定
■ 4日(第1聖日) 待降節礼拝 聖餐式 12月誕生者祝福
■11日(第2聖日) 待降節礼拝 Happy Sheep 役員会 各CSクリスマス祝会
■18日(第3聖日) クリスマス感謝礼拝 洗礼式 23日 JYクリスマス祝会
■24日(土) クリスマス イブ礼拝
■25日(第4聖日) クリスマス伝道礼拝
1月行事予定
■1日(第1聖日)元旦礼拝
■8日(第2聖日)成人祝福礼拝 聖餐式 1月誕生者祝福 成人祝福式 エノク会例会
■15日(第3聖日)礼拝 プラチナ婚・ダイヤモンド婚式・金婚式 婦人会・壮年会例会 役員会
■22日(第4聖日)伝道礼拝 バルナバ・ミッション祈り会
■29日(第5聖日)礼拝 質問受付会 臨時役員会
宣教題 「あなたを待っておられる主」 宣教 川原﨑晃牧師
聖 書 ルカ2章6~7節 黙示録3章20節
天地に満ちるほどの大いなる神さまが、幼子イエスさまとして、この地上に最も低く降って来てくださいました。このように私たちに人間と同じようになられたという事実は、私たち人間を救うためであり、これがクリスマスの出来事でした。
1.なぜ、救い主を締め出してしまうのか
当時の世界の片隅で起こったイエスさまの誕生は、人類の歴史の中になされたことでした(ルカ2章1~3節)。その経緯の中で見過ごしにできないのが、「飼い葉桶」にお生まれになったという、この上なく貧しく低い場所に誕生されたことです。それに対して、人々は宿泊場所を拒否して、イエスさまを締め出してしまったのです(ルカ2章7節)。
これは、人間の心の状態を探りあてています。汚れた心であったり(マルコ7章20~23節)、イエスさまに対して無関心であったり、イエスさまより自分のことが大切であったりという心が支配していると、イエスさまを締め出してしまうのです。今、あなたの心は、どんな状態でしょうか。
2.なぜ、救い主は待っておられるのか
飼い葉桶にまで降り、十字架の死にまで低く降ってくださったイエスさまは、そんな心の状態にある一人ひとりの心の戸をノックしておられます(黙示録3章20節a)。
イエスさまは、一人ひとりがその招きの声を聞いて、閉じた心の戸を全開して「救い主」としてお迎えすることを待っておられます。そのようにお迎えするならば、イエスさまはその人の人生の「主」となられ、新たな交わりをもって生きるように導いてくださるのです(同3章20節b)。
あなたの心と人生に救い主イエスさまを迎え入れてこそ、はじめて本当のクリスマスを迎えることになるのです。
宣教題 「主がおられる所へ行く」 宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書 イザヤ58章1~14節 マタイ25章40節
主が共におられることを私たちは求める。自分の祈りを主が聞き、それに応えて「共にいてくださる」と語って下さることを求める(4, 9節)。どうすればそのことが実現するのだろうか。捕囚後のエルサレムに住むユダヤ人たちは、断食によって自らを苦しめることを通してそれが実現すると考えた(5節)。ところが、主は彼らの断食を顧みず、祈りに応えてくださらなかった(3節)。
1. 断食か、社会生活か
なぜ断食を主は顧みてくださらないのだろうか。主がその人の宗教的な部分だけではなく、全生活を見ておられるからである。本当に主を尋ね求め、主を知ろうとしているのか(2節)、主は問われた。断食をしている人々の生活は、主が願っているものからはほど遠いものであったからだ。労働者を追い使い、争いをおこし、暴力を平気に用い、人々を束縛し、貧しい者にあわれみを施さず、安息日に休みをとらずに、人々をこきつかった(3, 4, 6~7, 9~10, 13節)。民の生活は、彼らと関わりを持っている諸国民の生活と変わらなかった。だからであろうか、宗教的に生きようと彼らは断食をした。しかし、神は、宗教的な自分と世に生きる自分を使い分けている者に厳しく対応された。
2. 全生活を見られる主
全生活を見直しなさい、と主は語りかけた。人々を解放し、貧者を顧み、安息日を守って、他者を休ませなさい、と命じた(6~7, 9~10, 13節)。断食をする宗教的な人であるか、ではなく、生活の現場でどう生きるか、が問われていた。自分よりも立場の弱い人々への解放と思いやりに生きるとき、そこに主が共におられて、祈りに応え、導き、満たし、いのちをあたえ、再建を果たしてくださる。そして、そのような人と共に主がおられることをまわりの人々も見るのだ。
イエスご自身もこのことをご存知だった。そして、羊と山羊の物語を語られた(マタイ25章31~46節)。自分よりも立場の弱い人々を解き放ち、思いやりを示す生きる場所にこそ、主が共におられる所であると述べられた。われらも主がおられる所へ行こうではないか。
宣教題 「神の言葉を聞いて」 宣教 川原﨑晃牧師
聖 書 ルカ11章27~32節
ここには、一つの主題ついて語られています。神の祝福を受けて歩む者の生涯の源となっているのは、「神の言葉」であるということです。私たちは、その神の言を聞いて、どのような信仰をもって応答していくのでしょうか。
1.服従の伴う信仰 27~28節
主イエスが語られた御言葉と成された御業の素晴らしさを讃えるある女が、主イエスを宿し、養った者の幸いを語っています。ところが主イエスは、「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」と言われました。つまり、神の言葉を心に蓄え、それがいつも生活の中心にあり、基準となっている者が幸いであることを明らかにされたのです。
それは、神の御心に生きることであり(ルカ8章21節)、御言葉に服従する者の幸いを意味しています(同1章38節)。つまり、神の言葉を聞く者が、心からの畏れと尊敬をもってそれに従い、それにふさわしく生きる幸いを教えておられるのです。私たちは、神の言葉を聞いて、それに従うか、従わないかの一点にかかっているのです。
2.心砕かれる謙虚な信仰 29~32節
当時のユダヤ人の多くは、主イエスが本物の救い主であるかどうかという「しるし」を求めました。それに対して主イエスは、ヨナの説教の言葉を聞いて悔い改めて救われたニネベ人々のことと(29~30節、32節)、ソロモンの知恵の言葉を聞きに来た南の女王のことを述べつつ(31節)、彼らよりまさる主イエスが語られる神の言葉を聞くことが最大の「しるし」であることを語られました。このことを通して主イエスは、神の言葉を心砕かれて聞き、犠牲を惜しまないで謙虚に聞くことが大切であることを教えておられるのです。
神の言葉は、心砕かれる謙虚さをもって聞かないと、私たちの心に響いてきません。魂に語りかけられる神の言葉の力強いことを経験する特権にあずかりましょう。
宣教題 「福音の冠」 宣教 川原﨑晃牧師
聖 書 1テサロニケ2章17~20節
パウロは、テサロニケの信徒たちを母親のように、また父親のように愛したと縷々語ってきました(2章1~12節)。本日の箇所では、福音がもたらす交わりの喜びがあり、そこから生み出される結実の喜びがあることを語っています。
1.福音の交わりを喜ぶ 17~18節
パウロは、顔と顔とで会いまみえる交わりに勝るものはないことを知っていました。そこで、テサロニケ教会再訪を切願するだけでなく、実行に移そうと並々ならぬ決意をしています。しかし、その神の働きは、背後で阻止しようとする巧妙なサタンの仕業によって妨げられました。
パウロは、そうした中にあって、「顔を見ないだけで、心が離れていたわけではない」と、テサロニケの信徒たちとしっかり結び合わされていたことを喜びとしています。心が結び合わされているところには、祈りがあります(コロサイ4章2~3節参照)。私たちは、祈りを通して、全世界のまだ会ったことのない人々とも豊かな交わりを持つことができるのです。
2.福音の実を喜ぶ 19~20節
限りある地上での歩みをする私たちが、再臨の主イエスの前に立った時に、何を望みとし、何を誇りとし、何を喜びとするのでしょうか。ここに、喜びに満ちたパウロの姿があります。それは、自分を通して主イエスの救いに導かれ、養われた聖徒こそが、『わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠・・・実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉であり、喜びなのです』と告白しています。つまり、主イエスの福音に与った者の満ち溢れる喜びは、誰かが主イエスの救いに至る道を選択した時に、そのお助けができた時の喜びです。
私たちは、主イエスの再臨の時に、空手で主をお迎えすることがないように、今こそ主の業に励む幸いな者とさせていただきましょう(1コリント15章58節参照)。