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2016年5月

野の花を見よ(2016.5.29)

宣教題  「野の花を見よ」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ6章25~34節

造り主なる神は、悠久なる大自然、大宇宙を造られ、それを支えておられます。そればかりか、「野の花」とりわけ小さな花のひとひらに至るまで、まことに緻密で用意周到に造られました。この「野の花」を注意して見ることにより、愛の神を知り、自らの生き方を問い直したいものです。

1.造り主を信頼する
造花には命がなく、生花には命があります。命を創造することは、人間の科学の世界には許されていないのです。真似はできても、命を創造することは、造り主の独壇場です(29節)。野の花が花を咲かせて精一杯生かされているように、人は神から与えられた命を精一杯生きるのです(30節)。ここに、生きる喜びがあります。
よく考えてみるならば(28節)、野の花が造り主によって育てられ、運ばれるままに生きるように、人は造り主に信頼して生きるのです。ですから、自分のことだけでなく他人のことまで心配したり、今日だけのことでなく将来のことまで思い悩んだりしないで(31~32節)、神を第一として神に信頼して歩むのです(33~34節)。

2.備えてくださる主を信頼する
花は人生の無常さも教えています(30節、1ペトロ1章24節)。確かに、人にはいつ何が起こるか分からないという世のはかない現実があり、また人生の終わりの時が必ず来ます。さらに、神に造られた被造物は、様々な弱さがあることにも気づきます。その弱さを最も覚えるのが、罪の解決を得ていない状態にある時であり、自らの死を覚える時です。
しかし、そこでこそ神の愛に触れ、主イエスの救いに出会う時なのです。主イエスの十字架の愛を信じる者の罪を消し去って罪を責め立てることなく、復活の主イエスを信頼している者が死の恐怖で追い立てられることはありません。ですから、備えられた神の恵みの中を生き、神の前にまっすぐに生きることです(33節)。

礼拝ご案内・行事予定(2016年6月)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び 1階集会室にて
お話は毎回完結します。
いつでもお入りください。
5(日) 第1聖日 総会「喜びの転換」
ルカ10:17~24
ステバノの殉教   使徒7:54~60
鎌野 健一
12(日) 第2聖日 花の日礼拝「神の心配」
1ペトロ5:6~7
祈りと証し
19日(日) 第3聖日 父の日礼拝 「神のあわれみを知る」
ヨナ4:1〜11
放蕩息子
ルカ15:11~24
大塚 章信
26日(日) 第4聖日 伝道礼拝 「自分が変われば」
ヨハネ2:1~11
サウロの回心    使徒9:1~19
真田 重治

祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日)  AM 10:30 ~12:00、PM 7:00 ~ 8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

6月行事予定

5日(第1聖日)教会総会礼拝 聖餐式 6月誕生者祝福  教会総会(定期総会)
12日(第2聖日)花の日礼拝  花の日訪問
19日(第3聖日)父の日礼拝  チャペルコンサート
26日(第4聖日)海外宣教日・伝道礼拝  教師研修会2

7月行事予定

3日(第1聖日)礼拝  聖餐式 7月誕生者祝福 エノク会例会
10日(第2聖日)礼拝  役員会
17日(第3聖日)教団創立記念日礼拝  婦人会例会 壮年会例会
24日(第4聖日)伝道礼拝  青年会さんび集会
31日(第5聖日)礼拝

思い直される神(2016.5.22)

宣教題  「思い直される神」           宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨナ書3章1~10節 ルカ18章14節b

キリスト教の確かさは、その神の確かさに依存する。
1. 変わらない神と思い直すヨナ
主はヨナをニネベに送ろうとした。ところが、ヨナはそれを拒絶し、逆方向のタルシシュへと逃げようとした。しかし、主はヨナを捕らえた上で、魚を用いて海へほうり込まれたヨナを救い出した。そして、ヨナを再度、陸地へと送られた(1〜2章)。主は、前回同様、ヨナをニネベに送る。思い直したヨナは、今回は主の命令どおりニネベへ行き、語るべきことばを一日だけ語った(4節)。神はご自身の計画を変えない一方で、ヨナは思い直してニネベで務めを果たした。

2. 思い直すニネベと思い直す神
ヨナのことばは大きな影響をニネベに与えた。あらゆる階層の人々が、警告を与えた神のことばを信じ、来たるべき災厄を覚えて悲しんだ。その知らせは王にまで届き、王も悲しんだ(6節)。そして、家畜を含めたすべての民に、断食して悲しみ、神へと祈願の声をあげ、あらゆる悪と暴力から離れるように訴えた(8節)。ニネベは悪から離れ、立ち返った。滅ぼすことを決めた神であっても、万が一つの可能性でも、自らの決定を思い直すかもしれない、とニネベの民は信じ、自らの過ちを認め、へりくだった(9節)。すると、神は立ち返った彼らの姿を見て、思い直し(悔い改め)、災いを下すのをやめた(10節)。

3. 変わらない神
神は一度決めたことでもそれを変えられる。そんな神は確かな方だろうか。気まぐれな方では、と疑う。そうではない。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ18章14節)という原則に従って、神は思い直す。神が善い方であるという可能性に賭けている人々がご自身に立ち返るのを見、ご自身に叫ぶ声を聞いて、必要ならば思い直される。たとえそれが長く神に敵対していた人であってもである。人に最善をもたらすために、神は思い直す。「へりくだる者」に対して神は思い直す。善い方であるという点において、神は変わらない方、確かな方である。

聖霊による心のきよめ(2016.5.15)

宣教題  「聖霊による心のきよめ」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  使徒言行録15章6~11節

ペンテコステに聖霊の降臨を経験し、力強い前進を見た初代教会は、ほどなくして様々な課題に直面することになりました。それは、聖霊の働きが一方的なものではなく、人の側の在り方と無関係でないことを明らかにしているのです。神が聖霊を与えて人々の心をきよめてくださるのも、信仰によるのです(8~9節)。

1.心がきよくされる必要
異邦人も割礼を受けるべきだと主張したユダヤ人たちは(5節)、きよめられる必要のあるクリスチャンの姿を表していると言えます。それは、彼らの心にあったもので、差別意識あるいは優越感(8~9節)、律法主義あるいは無慈悲さ(10節)、神を試みる思い(10節)が問題なのです。
これらは、クリスチャンの心にもあり得るもので、きよめられる必要があります。そのままであったら、自分自身が自由でないし、人を苦しめることにもなるし、教会を混乱させることにもなって、神の栄光を現すことができないのです。聖書は、人の心がきよくされることの幸いを強調しています。

2.心がきよくされる道
クリスチャンは、主イエス・キリストによる救いの恵みを信仰によって受け取った者です(11節、エフェソ2章8~9節)。その心がきよめられ続けるのも同じです(1ヨハネ1章7節)。それを可能にしてくださるのが、聖霊なのです。クリスチャンは、自分の姿に気づかせられて、そこからきよめられることを祈り求め、扱われ、悔い改め、示さけるままに従うのです(使徒言行録5章32節)。
私たちは、「人の心をお見通しになる神」であるからこそ(9節)、きよめられる必要のある性質、とりわけ「かたくなな心」(マルコ3章5節)を聖霊によってきよめていただき、聖霊に満たされて歩むことが求められています。
あなたの「ペンテコステ」は!

互いの謙遜(2016.5.8)

宣教題  「互いの謙遜」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ5章1~5節

キリストの謙遜が私たちの救いとなり、キリストの救いが私たちを謙遜にします。
ペトロ、長老たち、若い人たちを含む信仰者が、「皆互いに謙遜を身に着け」続けているにはどういう霊的備えが必要なのでしょうか。

1.謙遜に人を導くように  1~4節
キリストの十字架の血によって贖われて神のものとされた一人ひとりが、結ばれて「神の羊の群れ」となっているのが教会です。ペトロと共に長老である者たちは、「キリストの受難の証人」であって終末の栄光にあずかる望みに生きていました(1節)。その彼らが、神の羊の群れとしてふさわしく形造り、養い育てるように命じられています(2節a)。また、神の召しに応えて、喜びをもって自発的に群を身守るように命じられています(2節b、ヨハネ21章15~17節参照)。そして、恥ずべき利益を求めることなく、熱く心が燃えていることが求められています(2節c)。
このように、キリストの僕として(ヨハネ13章12~17節参照)、謙遜に人を導くことによって輝いてくるのです(3~4節)。

2.謙遜に人に導かれるように  5節
続けて、「同じように、若い人たちも、長老に従いなさい」と勧めています。若い人たちは、同じように謙遜を身に着けて、キリストとその御言葉に対して、取り次がれる勧めに対して聴き従うことが大切です。人は服従の勧めに対して、最も不服従になりがちです。ですから、繰り返し、謙遜を身に着け続けることを体験的に学び続ける必要があるのです。
このように、導く人も導かれる人もキリストの謙遜によって神の羊とされたのですから、お互いが謙遜を身に着け続けさせていただいていることが大切です。謙遜に人を導く装い、謙遜に人に導かれる装いを身に着けさせていただくことにより、神の羊の群れは生きるのです。

共に重荷を負い合いつつ(2016.5.1)

宣教題  「共に重荷を負い合いつつ」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ10章1~16節

私たちが負う重荷には、個々人別に負うものと、共通して負うものとがあります。キリスト者の全てが負うのは宣教の重荷であり、それを通して学び続け、内に安息を経験していくのです(マタイ11章28~30節)。神の民の共同体である教会は、この共通の重荷を負って遣わされていくのです(1~3節)。

1.委ねられた福音を共有する
キリストの平和に生きる者は、人々がその平和に与かれるように働きかけます(5~6節、ヨハネ14章27節)。それは、キリストによって神の恵みのご支配がすでに来ているのですから、そのチャレンジにお応えして、キリストの十字架と復活の御業を信じるように勧めます(9節)。ですから、心を頑なにし悔い改めないで、神の国の福音を拒み続けることのないように注意を促しています(10~16節)。
このように委ねられている共通の福音に対して、一人ひとりが応答していくならば、その福音のとおりの人生が始まり、福音を生き続けることになるのです。ここに、キリストによる最大の奇跡があるのです。

2.キリストに信頼する
キリスト者は、キリストに信頼しつつ生きることを証しする生活をするのですが、委ねられた福音を共有することにおいても同様です。すなわち、この福音を証しするに際しては、様々な試練によって不安や恐れを抱くことがあり、また生活事情や心遣いをすることによって振り回されやすいために、キリストに信頼して助けていただく必要があるのです(3へ4節、7~8節)。
キリストは、ご自身を信頼する者たちを「小羊」として遣わされます(3節)。小羊のようになられたキリストによる罪の贖いのゆえに、頑なな心を打ち砕いて、真の謙遜と愛に生きる小羊の心に変えて用いてくださるのです(1ペトロ1章18~19節、2章23~25節)。大いに、この宣教の重荷を負い合いつつ、語り伝えたいものです。