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2016年3月

礼拝ご案内・行事予定(2016年4月)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び 1階集会室にて
お話は毎回完結します。
いつでもお入りください。
3(日) 第1聖日 礼拝「真実なキリストに向かって」
ルカ9:57~62
エマオへの道 ルカ24:13~32
鎌野 健一
10(日) 第2聖日 礼拝「主の真実のゆえに」
1ペトロ4:12~19
見ないで信じる信仰  ヨハネ20:24~29
真田 重治
17日(日) 第3聖日 聖会礼拝 「この小さな者たちの一人にしたのは」
マタイ25:31~46
祈りと証し
24日(日) 第4聖日 伝道礼拝 「新しいボス」
1テサロニケ1:9-10
キリストの再臨の約束
使徒1:9~11
増永 茂

祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日)  AM 10:30 ~12:00、PM 7:00 ~ 8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

4月行事予定

3日(第1聖日)礼拝 4月誕生者祝福  奉仕者任命式  婦人会例会
10日(第2聖日)礼拝 聖餐式 エノク会例会  役員会
17日(第3聖日)礼拝 春の聖会
24日(第4聖日)伝道礼拝 教師研修会1

5月行事予定

1日(第1聖日)礼拝 聖餐式 5月誕生者祝福
8日(第2聖日)母の日礼拝 銀婚式 役員会
15日(第3聖日)ペンテコステ礼拝
22日(第4聖日)伝道礼拝 Happy Sheep
29日(第5聖日)礼拝 質問受付会

大いなる逆転(2016.3.27)

宣教題  「大いなる逆転」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1コリント15章50~58節

キリストの十字架と復活の出来事は、過去の歴史ではなく最新のニュースであり、今も生きて働いている福音です。従って、死者の復活は揺るぐことのない希望です。
そこでパウロは、復活されたキリストによってもたらされる勝利の叫びを上げています(57節)。さらに、生き方が変えられたことを明らかにしています。

  1. 死に勝利して生きる 50~56節
    ここには、死の力の前に無力を知らされるばかりの私たちに、決して死がすべての終わりではないことを告げています。地上の有り様は過ぎ去り、朽ちていきます。しかし、終わりの日すなわちキリストが再臨されるときには、「この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」との神の御業がなされるからです(52~53節)。このことを信仰の目でしっかりと見るようにと告げています(51節)。
    そして、死に対する勝利が宣言されています(54節b~56節)。死は罪の結果であり、その罪に対するさばきが死です。しかし、キリストの十字架と復活によって、罪と死は完全に滅ぼされ、「死は勝利にのみ込まれた」のです。この世の命に望みをおかず、復活信仰に生きるところに勝利があります。

2. 主の業に溢れて生きる  57~58節
さて、復活信仰に生きる者は、死に勝利させてくださった神に感謝する生涯へと変えられます(57節)。そして、「主の業」に常に励む歩みに繋がっていきます。それは、いかなる時も、いかなる状況にあっても、キリストの十字架と復活によって成し遂げられた福音をこの世に証しすることに溢れる生き方です。信仰によってキリストに結ばれている者には、その主の業がどれほどの苦労であったとしても、決して「無駄」にはならないのです。
キリストの復活のゆえに、私たちの信仰も宣教も「無駄」にはなりません(15章14節)。また、そのキリストの恵みに徹して生きる者は、神の恵みを「無駄」にはしません(15章10節)。復活信仰がもたらす大逆転に生きる群で在り続けたいものです。

十字架が生み出す祝福(2016.3.20)

宣教題  「十字架が生み出す祝福」         宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ガラテヤ3章6~14節

十字架を麗しいと思う。しかし、二千年前、十字架は忌まわしい、呪われたものであった。呪いの十字架が麗しいものへと変わったのだ。それには理由がある。
天地を創造された神は、人を通してご自身の祝福を世界に満たそうと願われた。人はそれを拒絶した。しかし、神はそこからの回復の道を計画された。アブラハムとその子孫イスラエルを祝福し、彼らを通して世界のすべての民を祝福しようとされたのだ(8節)。そのために、イスラエルが神とともに歩み、世の光として生きることができるように律法を与えた。ところが現実はどうだろうか。神の祝福は世界の民には及ばなかった。むしろ、祝福の民であるイスラエルは呪いの下にあって苦しんでいた。「呪い」という大きな重荷が壁となって祝福を止めていた。そうであるのに、人々はいまだに「呪い」しか生み出さないものを慕い求めていた。

二千年前の受難日、神はこの「呪い」そのものを用いられた。ご自身の独り子であるキリストを十字架につけられたのだ。キリストは呪いそのものとなられ、イスラエルの上にある呪いと世界中の呪いをひとり、その身に負われた(13節)。キリストが重荷を負われ、取り去られたので、神の祝福がイスラエルから世界へと流れるのをとどめる壁が取りのけられた。その結果、神の霊が神の民の上に留まり、神の祝福が異邦人へと広がっていった(14節)。

本当に祝福は広がっているだろうか。私の目の前には、呪いが満ちているばかりではないだろうか。どうしたら、アブラハムの祝福が私にまでの及ぶのだろうか。アブラハムと同じ信仰に生きることによってである(7節, 9節)。神がなされたこと、そしてこれからなされることへの信頼、「呪いの十字架」によってあらゆる呪いの重荷が取り去れたと信じる信仰によってである。今までの方法を繰り返し用いても、律法がそうであったように、呪いをもたらすだけである。神がなされたこと、そしてこれからなされることに信頼する。信仰とは、無理やり「信じます」で生まれるものではない。祈り求める者に神が与えてくださるものだ。そして、アブラハムの信仰が与えられたとき、呪いの十字架は、祝福を生み出す麗しい十字架となる。

祈りへの集中(2016.3.13)

宣教題  「祈りへの集中」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ4章7~11節

この手紙は、「万物の終わりが迫っています」(7節)と切迫感がみなぎっています。そこには、キリストの再臨を意識しつつ、祈りを優先させ(7節)、キリストに栄光を帰している教会の姿があります(11節)。このように教会が祈りを集中させることは、何に向き合って生きることが大切なのかを教えています。

1.「終わり」に備えて生きる  7節
ペトロは、御言葉を通して聖霊によって神の時について教えられました(使徒言行録2章16~21節)。そこには、神の永遠の救いの世界が現実のこの世に突入してきたので、人がそこに織り込まれていることを明らかにしています(1ペトロ1章5節)。ですから、万物は永遠ではなく、人間を含めたこの世のすべてのものが、神によって造られ、生かされ、保たれ、締めくくられるのですから、「思慮深く」冷静に見極め、「身を慎んで」目覚め、祈りに向かっていることが大切なのです(マタイ26章36~46節参照)。
この祈りへの集中によって、私たちの信仰の領域は拡げられ、神を知ることが豊かにされ、神への信仰と信頼が確かにされていくのです。

2.キリストにある命を分かち合う 8~11節
祈りへの集中は、相互の分かち合い築き上げていきます。何よりもまず、聖霊によって神の愛を注ぎ続けていただくことにより(ローマ5章5節)、心を込めて、深く愛し合うことを貫き、多くの罪を覆うことをさせていただくのです(8節)。そして、神の愛とキリストの忍耐をいただいて、不平を言うことなくもてなし合うのです(9節)。そのためには、各々が神から与えられているそれぞれの賜物を差し出して、互いに仕え合うのです。神の言葉を語るにはふさわしく、奉仕するにおいても力に応じて、「恵みの善い管理者として」用いさせていただくのです(10~11節ab)。
ただ、これらの分かち合いは、私たちを祈りの場へと追いやっていただくことによって可能となります。そして、キリストの愛と力を覆っていただいていることを讃えるのです(11節cd)。

受け入れる力(2016.3.6)

宣教題  「受け入れる力」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ9章46~56節

主イエスは、どのような人でも受け入れてくださいます。人は、その主イエスを受け入れ、また他者をも受け入れ、互いに受け入れ合うことによって生きていくことができるのです。弟子たちの心と主イエスの心を比較することによって、受け入れることの大切なことを知るのです。

1.弟子たちの心
弟子たちは、だれがだれよりも偉いかとの議論をしています(46節)。そのような議論に至ったのは、弟子たちの間で比較し合ったり、その違いを意識し過ぎたりしたことによったと思われます。主イエスは、そのような彼らの心の内にある傲慢を見抜いておられます(47節)。
さらに、弟子たちは、自分たちの仲間になっていない者たちが主イエスのお名前を使って悪霊を追い出し、自分たちと関わりのない所で御業をしていることを非難しています(49~50節)。また、サマリア人が主イエスを歓迎しなかったことに怒っています(52~56節)。彼らの心には、自分たちのことを自慢する誤ったエリート意識があったのです。
弟子たちのこのような心は、主イエスに受け入れていただいていることを忘れた思いあがりから生じてくるものでした。

2.主イエスの心
主イエスは、当時の人々が何の役にも立たないと思っていた「子供」を受け入れておられます
(47節)。このことは、主イエスが、この子供に等しい存在であることを認める者を受け入れていてくださることを教えておられるのです。この主イエスを受け入れる者が、主イエスをお遣わしになった父なる神を受け入れる者なのです(48節)。主イエスは、価値や有用性によっておしはかられるのではなく、ただ罪によって失われていく命をいとおしんでいてくださるのです。そのために、十字架に向かって決然と歩み出されたのです(51節)。
主イエスを受け入れた者は、他者を受け入れるのです。ちょうど、主イエスが弟子たちの足を洗って彼らを受け入れられたように(ヨハネ13章1~20節)、私たちも互いに受け入れ合うことにより、新しい関係を造りだしていくのです。