宣教題 「待望の祈り」 宣教 川原﨑晃牧師
聖 書 イザヤ63章15節~64章4節
イザヤは、神の民がバビロンに捕らえ移されたときに、そこから解放されることを待ち望むように勧めています。「どうか」(63章15節、19節)とは、神の助けを求める待望の祈りです。それは、キリストの初臨と再臨との間の恵みの日々を生きる者の待望の祈りでもあります。
1.信仰復興の祈り
苦難のただ中にあって行き詰まりを覚えた神の民は、まず神の恵みの御業を思い起こさせていただいています(63章7~9節)。続いて、神に対して自分たちの不従順を見せられ(同10節)、それでも決して見捨てられない神の前に悔い改めへと導かれたのでした。そして、神の恵みへの信仰に目覚めさせられ、もう一度「どうか、天から見下ろし」てくださいと呻き祈り求めたのです(63章11~15節)。
待降節の日々を過ごす私たちは、イザヤの時代の人々と同様に、主の救いと導きを想起しつつ、自らの不信仰と不従順を悔い改め、信仰復興を祈り求めたいものです。キリストは、心を開けようとしない私たちを待っていてくださいます(黙示録3章20節)。
2.再臨待望の祈り
神の民は、いつまで続く困難かと神に問いつつ(63章15節b~19節a)、同時に、どこまでも神にすがりつこうとする信仰の執念をもちあわせていました(64章1~4節)。そして、神は必ず立ち上がってくださるとの確信がありました。こうして、過去の救いの出来事が、現在と将来に結びついていったのです。そのような希望をもって「どうか、天を裂いて降ってください」(63章19節b)と祈り求めています。
待降節を迎えている私たちは、再臨されるキリストを待望する信仰に生きています。教会と信仰者には、その時を迎えるにふさわしいものとして準備をする務めと責任を負わされています。「アーメン、主イエスよ、来てください」(黙示録22章20節)との信仰を持たせていただくのが、待降節(アドベント)の信仰です。