メニュー 閉じる

2015年12月

礼拝ご案内・行事予定(2016年1月)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び 1階集会室にて
お話は毎回完結します。
いつでもお入りください。
1(金) 元旦礼拝「再び燃えたたせよ」
2テモテ1:6~7
 
3(日) 第1聖日 新年礼拝「次世代への継承」
2テモテ1:1~14
ニコデモ  ヨハネ3:1~15
鎌野 健一
10(日) 第2聖日 成人祝福礼拝「本物の礼拝者」
ヨナ1:1~16
祈りと証し
17日(日) 第3聖日 礼拝 「栄光の主をみつめながら」
ルカ9:28~36
変貌のキリスト  ルカ9:28~36
真田 重治
24日(日) 第4聖日 伝道礼拝 「この日を正月としなさい」
出エジプト12:1~14
前進の決意  ルカ9:51~62
増永  茂
31日(日) 第5聖日 「聖なる主をあがめよ」
1ペトロ3:13~22
癒された10人の病人   ルカ17:11~19
大塚 章信

祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日)  AM 10:30 ~12:00、PM 7:00 ~ 8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

1月行事予定

1日(金)  元旦礼拝、コイノニア
3日(第1聖日)礼拝 聖餐式 1月誕生者祝福
10日(第2聖日)成人祝福礼拝  成人祝福式   エノク会例会
17日(第3聖日)ダイヤモンド婚式・金婚式  婦人会・壮年会例会  役員会
24日(第4聖日)伝道礼拝  バルナバ・ミッション祈祷会
31日(第5聖日)礼拝  質問受付会  臨時役員会

2月行事予定

7日(第1聖日) 教会総会礼拝 聖餐式 2月誕生者祝福  教会総会(定期総会)
14日(第2聖日)礼拝  役員会
21日(第3聖日)伝道礼拝
28日(第4聖日)礼拝  各会総会

御言葉は変わらない(2015.12.27)

宣教題  「御言葉は変わらない」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  イザヤ55章8節~13節

神は、恵みをもってご自身の民を回復されるお方です。神のもとに来て、神を尋ね求めて立ち返るように招いておられます(55章1~3節、6~7節)。続いて、神はご自分と神に立ち帰った者とを対比させながら、ご自分が超越した絶対の存在であることを明らかにされ、どこまでも神の御言葉に信頼をおくことを勧めておられるのです。

1.神の思いと道を求める  8~9節
神の考えや計画という「思い」とそれを実行していく手段や方法という「道」は、人のそれらとは違うことが強調されています。ですから、人が神の思いと道を把握し、理解し、納得することは難しいのです。とは言え、神は、人の思いや考えを超えたところで、人を導いておられることも明らかにしようとしておられます。
不穏で心をかき乱すことの多い現実があると、人は神ご自身を求めるよりも、自分たちの困難や痛みだけにとらわれやすいものです。しかし、そのような時にこそ、神の思いと道は、人のそれらとは違うことを知って、生きておられる神に心を開いて神の思いと道に思いをはせるのです(ルカ2章19節参照)。

2.神の御言葉に生きる  10~11節
神は、「わたしの口から出るわたしの言葉」と言われる神の御言葉の特質を明らかにされています(イザヤ40章8節参照)。神の御言葉には、神ご自身のお考えやご意思やご計画が込められており、それが人に語られるならば、御言葉が持つ救いと命と力を現実に造り出していくのです。
イザヤ書には、イエス・キリストの初臨から十字架と復活そして再望に至るまで預言されており、そこに揺るぎない救いの完成を見ることができます。ですから、神に対する信頼をもって、神の御言葉に聴き従って生きるのです(ルカ1章37~38節参照)。
このようにして生きる者に神が用意されているものは、「とこしえに消し去られることがない」歓喜と祝福です(12~13節)。

神の愛の奇跡(2015.12.20)

宣教題  「神の愛の奇跡」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  イザヤ7章10~14節 マタイ1章21~23節

神の御子の誕生が告げられた「インマヌエル」の出来事こそが、クリスマスの奇跡であり、神の愛の奇跡です。そのことはすでに、イザヤを通して預言されていたことでした。「神は我々と共におられる」とは、どういうことなのでしょうか。
1.「神が共に」との救いが起こった  イザヤ7章14節
イザヤが預言した紀元前735年頃は、ユダの王アハズがアラムとエフライム連合と大国アッスリアとの狭間にあって危機的な状態にありました。その時イザヤは、不信仰に陥っていたユダの王と民に対して、神への信頼を持つように勧めました(7章1~9節)。続いて、神は「しるしを求めよ」と言われましたが、王は現実問題にとらわれたままでした(同10~13節)。そのような状態の王と民に対して、神自らが、一人のおとめが身ごもり男の子を産むという「しるしを与えられる」のです。それによって、「神が共におられる」ことを明らかにされ、勝利をもたらすとの約束をされたのです。
病気がなおった、敵が打ち破られた、困難に際して祈りが答えられたなども救いですが、確かな救いは、いかなる時にも「神が共におられる」という事実です。
2.罪からの救い主となられた  マタイ1章23節
イザヤの預言が成就したのは、イエス・キリストの誕生においてでした。「インマヌエル」とは、真の神と真の人が主イエスにおいて全く一つになったということであり、この主イエスによって、人が神と共にいることができる恵みが実現したのです。本来、聖なる神と罪人とが一緒にいることができないので、「罪から救う」ことを主イエスが十字架の身代わりの死を通して成し遂げてくださったことにより、人は神と共にいることができるようになったのです(マタイ1章21節)。
私たちは、インマヌエルの救いを信じ受け入れることによって、永遠の滅亡から「神は我々と共におられる」という永遠の命の中に導かれるのです(マタイ28章20節)。クリスマスは、そのような神と共にある歩みを新たに踏み出す時です。

クライマックスの到来(2015.12.13)

宣教題  「クライマックスの到来」         宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  マタイ1章1節~17節

神はイエスの誕生のために二千年近くも準備され、その準備が42世代の系図にまとめられている。7世代を一日と考えると、神の準備の一週間が見えてくる。

1. 最初の六日間
まずアブラハムの選びからはじまる(創世記12:1-3)。全イスラエルに広がりつつも、特別な人を選んで神は準備を進め(2-3)、第14代目、神の準備の二日目のクライマックスにダビデが登場した(6)。イスラエルの王ダビデに与えられた使命は、世界を治め、世界を祝福すること、つまり、アブラハムへの約束を実現することであった。しかし、「ウリヤの妻によって」(6)が示唆するように、準備は順調に進まず、むしろ王国の歴史は下り坂を辿り、第28代目、神の準備の四日目に王エコンヤは民とともにバビロンへと移住させられる(11)。次の14代の間に、民はイスラエルへと帰還はしたが、本当の回復は実現せずにいた。

2. クライマックスとしての第六日目
第42代目、つまり神の準備の六日目の最後に大きな変化が起こる。福音書が語る「アブラハムの子ダビデの子、イエス」(1)が誕生されたからだ。イエスこそアブラハムへの約束を、そしてダビデ王の使命を果たすメシアである(16)。その誕生は特別であった。イエスはヨセフの子ではないが、ヨセフの妻マリアから生まれた(16)。そこに神の直接的介入を見る。さらに、神の準備の六日間、ずっとそうであったように、立場の弱い女性たち(タマル、ラハブ、ルツ、マリア)を通して、神はクライマックスを到来させた。さらに、天地創造の第六日目に人が創造されたように(創世記1章)、神の準備の六日目のクライマックスにアダムに与えられた使命を果たすメシア、まことの人イエスをこの地上に遣わされた。

3. 八日目に向けて
六日目のクライマックスに来られたメシアであるイエスは何をもたらしたのだろうか。「罪からの救い」(21)であり、創造の第七日目が象徴する安息の到来である(11:28-30)。そして、世界の民がイエスの弟子となり、この安息を世界に告げ知らせている(28:18-20)。今、私たちは神の第八日目、イエスが再び来られ、新しい天と新しい地が持たされる日を待ち望んでいる。アドベントは、神がこの世界のために準備されてきたご計画を覚えつつ、新しい世界の到来を待ち望む季節でもある。

待望の祈り(2015.12.6)

宣教題  「待望の祈り」               宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  イザヤ63章15節~64章4節
 
 イザヤは、神の民がバビロンに捕らえ移されたときに、そこから解放されることを待ち望むように勧めています。「どうか」(63章15節、19節)とは、神の助けを求める待望の祈りです。それは、キリストの初臨と再臨との間の恵みの日々を生きる者の待望の祈りでもあります。

1.信仰復興の祈り 
 苦難のただ中にあって行き詰まりを覚えた神の民は、まず神の恵みの御業を思い起こさせていただいています(63章7~9節)。続いて、神に対して自分たちの不従順を見せられ(同10節)、それでも決して見捨てられない神の前に悔い改めへと導かれたのでした。そして、神の恵みへの信仰に目覚めさせられ、もう一度「どうか、天から見下ろし」てくださいと呻き祈り求めたのです(63章11~15節)。
 待降節の日々を過ごす私たちは、イザヤの時代の人々と同様に、主の救いと導きを想起しつつ、自らの不信仰と不従順を悔い改め、信仰復興を祈り求めたいものです。キリストは、心を開けようとしない私たちを待っていてくださいます(黙示録3章20節)。

2.再臨待望の祈り 
 神の民は、いつまで続く困難かと神に問いつつ(63章15節b~19節a)、同時に、どこまでも神にすがりつこうとする信仰の執念をもちあわせていました(64章1~4節)。そして、神は必ず立ち上がってくださるとの確信がありました。こうして、過去の救いの出来事が、現在と将来に結びついていったのです。そのような希望をもって「どうか、天を裂いて降ってください」(63章19節b)と祈り求めています。
 待降節を迎えている私たちは、再臨されるキリストを待望する信仰に生きています。教会と信仰者には、その時を迎えるにふさわしいものとして準備をする務めと責任を負わされています。「アーメン、主イエスよ、来てください」(黙示録22章20節)との信仰を持たせていただくのが、待降節(アドベント)の信仰です。