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2015年9月

新しく始める人生(2015.9.27)

宣教題  「新しく始める人生」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ21章15~19節

復活された主イエスがペトロに三度、「わたしを愛しているか」と尋ねられたことに対して、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えています。ペトロが主イエスとの変わらない愛の出会いを繰り返すなかから、新しく始める人生を歩み出しています。

1.愛を呼び起こされる人生
主イエスとペトロの出会いは、神の愛の出会いでした。神の愛は、行動を伴なうもので、主イエスの十字架と復活に集約されています(ヨハネ3章16節)。ところでペトロは、主イエスのためならば命を捨てるとまで豪語したにもかかわらず、主イエスの十字架のご受難を前に、三度主イエスを否認しました。そのペトロが、復活された主イエスに自分の罪をお詫びしたとか、改めて主イエスに従っていくとの決意を表明したとは証言されていません。それどころか、主イエスに出会った以前の生活に戻っています。
しかし、復活された主イエスは、ご自身の方からペトロと出会ってくださり、彼の人生のやり直しをさせなさいました。救われるとは、主イエスがもう一度やり直させてくださり、限りない愛を呼び起こしてくださることなのです。

2.愛の証しに招かれる人生
愛を呼びこされた主イエスは、いきなり「わたしに従いなさい」と言われたのではありません。三度も愛の応答を求められています。しかも、その愛の確かさは、ペトロ自身のなかに確信があるというのではなく、「あなたがご存じです」と、どこまでも主イエスに対する信頼に満ちた愛の告白をしています。そして、彼の心を支え、愛する者とされたのです。
信仰とは、主イエスを愛することであり、愛する他者に対して心を砕き、労することです。しかも主イエスのお心に生きることを喜びとすることです(18~19節)。このような愛の生き方に招かれていることに、真剣に応答したいものです。

礼拝ご案内・行事予定(2015.10)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び 1階集会室にて
お話は毎回完結します。
いつでもお入りください。
4日(日) 第1聖日 世界聖餐日礼拝「あなたがた自身で」
ルカ9章10~17節
「愚かな金持ちのたとえ」 ルカ12:13~21
鎌野 健一
11日(日) 第2聖日 神学校デー礼拝 「すべての約束の実現」
ヨシュア23:1-16、エフェソ6:10-12
祈りと証し
18日(日) 第3聖日 礼拝 「力あるあかし」
1ペトロ3章1~7節
「サマリヤの女」ヨハネ4:4~26
増永  茂
25日(日) 第4聖日 宗教改革記念礼拝  「仰ぎ見て生きよ」
ヨハネ21章20~25節
「弟子への招き」 ルカ5:1~11
大塚 章信

祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日)  AM 10:30 ~12:00、PM 7:00 ~ 8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

10月行事予定

4日(第1聖日) 世界聖餐日礼拝 聖餐式 10月誕生者祝福 エノク会例会 青年会おたのしみ
11日(第2聖日) 神学校デー礼拝  教会員の御言葉の学び3  役員会
17日 (土) CS秋の遠足
18日(第3聖日)礼拝
25日(第4聖日)宗教改革記念日・伝道礼拝  Happy Sheep

11月行事予定

1日(第1聖日)聖徒の日記念礼拝 11月誕生者祝福  聖徒の日召天者合同記念会
8日(第2聖日)礼拝  特別講演会
15日(第3聖日)幼児成長祝福礼拝 聖餐式  役員会
22日(第4聖日)収穫感謝日・伝道礼拝  大掃除
29日(第5聖日)待降節礼拝  チラシ配布  教師研修会3

民をひとつにするもの(2015.9.20)

宣教題  「民をひとつにするもの」         宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア22章21~29節 エフェソ4章4~6節
クリスチャンは孤独ではない。神の恵みによって、神の民という「ひとつの民」に入れられた者である。しかし、そのことを頻繁に忘れてしまう。

1. 分裂の危機
神の約束された地の土地の分配が終わったので、ヨルダン東岸を所有地とする二部族半の人々は帰還した(9節)。途上、彼らはヨルダン川沿いにひとつの大きな祭壇を築いた(10節)。これを聞いたイスラエルの人々は、驚き、軍を送ろうとした。しかし、まず、祭司ピネハスらをこの二部族半の所有地へと送り(11~14節)、シロ以外にささげものをする祭壇を築くことは主への背信行為であると訴えさせた(15~21節)。一方で、二部族半の人々は、川の東西に別れていても将来にわたってイスラエルがひとつの民であることの証拠とするためにこの祭壇を建てたと語り、ピネハスらを納得させた(22~31節)。

2. 忘れる、思い出す
十二の部族からなるイスラエルが「ひとつの民」であることは、すべてのイスラエルの人々にとって重要であった。ピネハスは、二部族半が主への背信行為を行うとすべての民の上に主の怒りが下ると考えていた(18節)。二部族半の人々は、自分の子どもたちが「ひとつの神の民に属してはいない」と言われ、神の民から離れ、信仰を失うことを恐れていた(24~25節)。自分たちが「ひとつの民であること」を、相手側が忘れるのではないか、その結果、自分たちが主の祝福から離されるのではないか、と懸念した。そこで、「ひとつの民である」ことを忘れないように、ピネハスは失敗した歴史を思い出すように語り(17節, 20節)、二部族半の人々は主という同じ神を礼拝していることを祭壇を通して思い出すように求めた(28節)。
クリスチャンも、自分たちが神の恵みによってひとつの民とされていることをすぐに忘れてしまう。だから、現状がどうであろうとも自分たちはひとつの民であることを常に思い出す必要がある。そのために、聖書が物語る歴史、人の失敗と神のあわれみの歴史を思い出し、希望を共有すること(エフェソ4章4節)、そして、すべてのものの父である神を共に礼拝する、ひとつのバプテスマによって生み出された民であることを思い出し続けること(4章5~6節)が大切である。毎年、毎週、毎日、礼拝を通して、「ひとつの民であること」を心に刻みつけ続けることが私たちの霊的な歩みを強くする。

生涯のテーマ(2015.9.12)

宣教題  「生涯のテーマ」               宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ2章18~25節

私たちがキリスト者になるということには、二つの召しがあります。キリストのものとされたという納得と歓喜、キリストのようにならせていただけるという希望と渇きです。それは、キリストを模範として、その足跡に続く歩みをさせていただくという(21節)、卒業のない、生涯のテーマです。

1.キリストのすばらしさにとらえられ続ける  22~25節
ペトロは、いつも弱い立場の人たちに寄り添い、彼らがキリスト者として祝福された生き方をするように勧めています。そして、彼らが、キリストの救いのすばらしい恵みを証しし、その恵みが押し広げられることを促がしています。
そのためには、キリストの苦しみを仰ぎ見続ける者となることです。なぜなら、キリストの十字架の身代わりの死のゆえに(22~23節)、私たちは罪に対して死に、神の前に真っすぐに生きる者とされたからです。そのお受けくださった傷によって、いやされたからです(24節)。しかも、神のもとを離れてさ迷っていた者を、キリストは「牧者」また「監督者」となって、ご自分のもとへと引き戻してくださったからです(25節)。
私たちは、この恵みの主キリストに立ち帰り続けていることが大切です。

2.キリストを模範とし続けて生きる  18~21節
弱い立場にある人たちが、人に仕えることにおいて従順であることと、不当な苦しみを受けても耐え忍び、与えられた使命を全うすることが「神の御心に適う」恵みであると伝えています(18~20節)。彼らが「召されたのはこのためだったのです」(21節)。
そのためには、正しくお裁きになる神にお任せになられたキリストを模範として、キリストの苦しみの足跡に従うことが大切です。私たちが日々に経験するあらゆることがらを全てご存知の神に任せることにより、信仰の領域を大いに広げていただくのです。
私たちは、任せる信仰を働かせる機会を逃さないようにしたいものです。人が一番若い日は、年齢の若さによるのではなく、キリストのように生きる日々です。

キリストと共に労する(2015.9.6)

宣教題  「キリストと共に労する」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ9章1~6節

私たちは、信仰の伝統から信仰のいのちを受け継ぎ、受け取り直し、再発見していくことが大切です。クリスチャンは、主イエスの弟子であるということもその一つです。主イエスの弟子は、いつも主イエスと一緒にいて(8章1節)、福音のために主イエスと共に労する者です。

1. 福音を委託されているから
主イエスは、弟子たちを遣わして「神の国を宣べ伝え」(2節)、「福音を告げ知らせ」(6節)なさいました。神の国の福音は、人が造り出すものではなく、主イエスご自身が差し出され、無代価で提供されたものです。それを委託された主の弟子たちは、「福音に共にあずかる」(1コリント9章23節)ことを切に望んだのです。
神の国は、ちょうど家屋の大黒柱のようなもので、主イエスの恵みの支配の中にあるならば、そのもとで支えられ、守られ、強められるという大いなる救いの中に保たれるのです。そこにおいては、人間の霊的な、精神的な、肉体的な弱さを覚えるときにも、救いの恵みに与らせていただけるのです。
主イエスは、私たち一人一人に、教会に、神の国の福音を託していて下さるのです。

2. 福音を伝える力が備えられているから
続いて主イエスは、「旅には何も持って行ってはならない」(3節)と言われました。神の国の福音を伝えるために必要なものは、神が備えていてくださるので、神を信じる信仰を持って行くように勧められたのです。ないものに目を留めるのではなく、その時その時に必要なものを備えてくださる神に目を留めて信頼することです。そのために、主イエスは、ご自身がお持ちの力と権威をもって、主イエスの弟子たちを教え、訓練し、造り上げてくださるのです(1節)。
主イエスの愛に駆り立てられ(1ヨハネ4章10節、2コリント5章14節)、福音を恥としないで(ローマ1章16節)、神の国の福音を語る力を与えられ、用いていただきましょう。