メニュー 閉じる

2015年8月

求める者は受ける(2015.8.30)

宣教題  「求める者は受ける」           宣教 岡本宗子師
聖 書  マタイ7章1~12節

1.神の祝福に生きるために
主は何の条件もつけず、ただ「裁くな」と命じておられます(1節)。生まれつきの罪人であるもの同士が神の祝福に生きていく道は、それ以外にないからです。
私たちは、自分の真相には全く気づかず、人の欠けにばかり目が向き、その悪いところを認めさせ正そうとするものを持っています。けれども決して、そのような方法で問題を解決することはできません。
解決のヒントは12節にあります。それは裁きではなくゆるしと祝福を与えるということです。人間は多様ですから、自分にしてもらいたいことが人にもいいとは限りません。けれども、例外なくすべての人間が必要としていることがあります。それはゆるされることであり、愛され受け入れられることです。
主イエスによる罪のゆるしの十字架を通して、私たちは神の愛を知り、罪を悔い改めることができました。主は私たちの罪や過ちをいちいちとがめることなく、すべてゆるし、きよめ続けて、祝福を受け継ぐ者とし祝福の器として立ててくださっています。この主にあって人の罪をゆるし、励ますことが、私たちのなすべき祝福のわざなのです。

2.求める者は受ける
神を愛すること、隣人を自分のように愛することが、聖書がいう最も重要な掟です(マタイ22章37~40節)。しかし、このような愛は、私たち自身の中からは出てこず、聖霊によって神から受けるのでなければなりません。
ですから、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と言われる主に、愛することができるように求めることです。そのためには、まず自分自身が悔い改めて、主の恵みと平安を新たに受けることができるように、十字架の前にへりくだりましょう。今日も、お互いが赦し愛し合って生きるために、聖霊によって豊かに注がれる神の愛を祈り求めましょう。

礼拝ご案内・行事予定(2015.9)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び    1階集会室にて
お話は毎回完結します。
いつでもお入りください。
6日(日) 第1聖日 創立69周年記念感謝礼拝「キリストと共に労する」
ルカ9章1~6節
 「親切なサマリヤ人」 ルカ10:25~37
鎌野 健一
13日(日) 第2聖日 長寿祝福礼拝 「生涯のテーマ」
1ペトロ2章18~25節
祈りと証し
20日(日) 第3聖日 礼拝  「民をひとつにするもの」
ヨシュア2221-29、エフェソ44-6
「切に求めて祈る」 ルカ11:1~13
佐藤 正雄
27日(日) 第4聖日 伝道礼拝  「新しく始める人生」
ヨハネ21章15~19節
「内面のきよめ」 ルカ11:37~44
真田 重治

 祈祷会   恵みの分かち合い (毎週水曜日)   AM 10:30 ~12:00、PM  7:00 ~  8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

9月行事予定

6日(第1聖日)創立69周年記念感謝礼拝 洗礼式 聖餐式 9月誕生者祝福
13日(第2聖日)長寿祝福礼拝 敬老感謝会  役員会
20日(第3聖日)礼拝
27日(第4聖日)伝道礼拝  アンサンブル・シオン定期演奏会

10月行事予定

4日(第1聖日) 世界聖餐日礼拝 聖餐式 10月誕生者祝福  青年会おたのしみ
11日(第2聖日) 神学校デー礼拝  教会員の御言葉の学び3  役員会
17日 (土) CS秋の遠足
18日(第3聖日)礼拝
25日(第4聖日)宗教改革記念日・伝道礼拝  Happy Sheep

信仰の報酬(2015.8.23)

宣教題  「信仰の報酬」              宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア14章6~15節 ヘブライ11章1節

「信仰の報酬」は、終わりのさばきの時に、主からいただくものとは限らない。今、このとき、私たちに与えられるものでもある。
約束の地へと出発したイスラエルは、カデシュ・バルネアから十二人を探索のために送った。よい地という報告を彼らは携えてきたが、大きな町とアナク人の子孫がいるため敗北するだけだ、と十人が語り、民の心を挫いた。しかし、カレブとヨシュアは、主が与えてくださる、と進言した。民の不信の罪のため、主はイスラエルに40年の放浪を与え、カレブとヨシュアには約束の地での嗣業を約束した(民数記13〜14章、申命記1:19-46)。

1. カレブの信仰
45年が過ぎた。85歳になったカレブはヨシュアに嗣業の地を願った(ヨシュア14:6-12)。彼のことばに彼の信仰の姿を見る。まず、45年前、カデシュ・バルネアで主に従いとおした姿(14:7-8)。次に、主が約束通り、45年間、生きながらえさせてくださったと信じ続けている姿(14:10)。そして、これからも主が共にいてくださって、アナク人を主が追い払ってくださるという確信(14:12)。神への信頼と、神への信頼から生まれる神への忠実さに生きている。「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」(ヘブライ11:1)そのものである。

2. カレブへの信仰の報酬
カレブに主は報酬を与えられた。45年経っても変わらないカレブの肉体的な力(14:11)や彼に与えられる嗣業の土地(14:13)。しかし、これらはだれに対してもそうである訳ではない。年をとれば、弱るし、望んでいたものが必ず与えられる保証はない。しかし、もう一つの主からの報酬があった。45年間、一貫して変わらない彼の信仰そのものである。45年間、主はカレブに信仰を与え続け、年老いてなお、その信仰に生かさせている。
自分の信仰がもっと強くなったら、と自分で自分の信仰を強くできるかのように語る。しかし、信仰は信仰の報酬として神から与えられるものである。与えられたものに生きる毎に、さらに与えられる。だからこそ、偉大な与え主である方を覚え続けたい。

主の愛の支え(2015.8.16)

宣教題  「主の愛の支え」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ26章69~75節 ルカ22章32節

主イエスとペトロの出会いは、後々までつながるものでした。主イエスの仲間とされていたペトロが、予告されたように(26章26~35節)、そこから離反してしまったのです。主イエスは、そんなペトロを愛をもって回復させ、支え続けられました。

1.人の弱さを知り尽くされる主イエス
ペトロが「そんな人は知らない」と主イエスを三度も否認したことは、彼にとっては消し去ってしまいたいと思うほどに恥ずかしいことでした。そのことを伝えているのは、主イエスの愛に対して、人は自らの力で誠実であることができない弱さをもっていることを語っているのです。
ペトロが、「わたしは決してつまずきません」(26章33節)と言ったのは、取りつくろってのことではありませんでした。しかし、主イエスが捕らえられたことに不安を覚えて、主イエスの仲間だと告発される度ごとに、その関係を誓ってまで否認したのです。
「そんな人は知らない」と言い切るような人の弱さ、身勝手さ、惨めさ、罪が、主イエスを十字架に架けたのです。

2.人への愛を貫かれる主イエス
主イエスは、ペトロによって否認されるという裏切りを知りながら、それを受けとめておられます(ヨハネ2章24~25節参照)。人は裏切られるという経験をすると、自分の愚かさを棚に上げて、相手を恨むことをします。しかし、主イエスは、どこまでも愛を貫かれました。裏切られてもなお愛する愛、それが神の愛です。その愛は、後々に至るまで貫かれました。
ペトロは、先に主イエスが語られた御言葉と(26章34節、75節)、慰めに満ちた励ましの祈りと御言葉を思い起こしたことでしょう(ルカ22章32節)。このように、主イエスは、愛をもって人を支え続けてくださるのです。この主イエス愛の前に立って、それを拒んだり、中間的な立場をとったりすることなく、主イエスの仲間であり続けましょう。

力尽きる時に(2015.8.9)

宣教題  「力尽きる時に」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章40~56節

ここでは、二つの話しが一つの物語として、引き離すことのできない共通の事柄が語られています。すなわち、自分たちの力は尽きたと思える病と死との戦いの連続の中にあって、なお、主イエスの御言葉を聴き、主イエスを信じ仰いでいます。信じるとは、どういうことなのでしょうか。

1.主イエスに任せる  40~42節、49~56節
人々にとって、主イエスの魅力は、このお方は必ず自分たちの願いを聴き届けてくださるお方であるということでした。会堂長ヤイロは、死にかけている一人娘を救いたいとの切実かつ緊急の必要から、「イエスの足もとにひれ伏した」のでした。その行為は、主イエスの権威にすべてを任せるとの信仰の表れでした。
ところが、主イエスが向かわれる途中で娘は死んだとの知らせが届きます。その報告を受けられた主イエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は救われる」と語られました。そして、生死の権威を手中に治めておられる主イエスは、娘を死の状態から解き放たれたのです。
わたしに任せなさい、と招かれる主イエスこそ、私たちの望みです。

2.主イエスを告白する  42~48節
12年間も出血が止まらなかった女性は、家庭や社会から隔離され、ユダヤ人の礼拝にも出席できませんでした。彼女の苦痛と悩みは、望みを失わせるものでした。
ところが、彼女が主イエスに近づき、「後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった」のです。「わたしに触れたのはだれか」との主イエスの問いに、彼女は「震えながらひれ伏し」、事の次第を皆の前で言い表わしました。そして、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」との救いに与かる新たな信仰の歩みを始めました。
主イエスをひそかに信じているだけでなく、そのことを公に言い表すことが求められているのです。

主のために(2015.8.2)

宣教題  「主のために」                宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ2章13~17節

わたしたちは、この世では「旅人であり、仮住まいの身」(11節)として歩んでいます。だからと言って、この世に対して無関心であり、無責任であってよいのではありません。国家に対して、社会に対して、家族をはじめ他者に対して、積極的に愛をもって仕えていくのです。その生き方の大原則が、「主のために」生きることです。

1.わたしたちの服従  13~15節
神のものとされた者は、人がつくった社会のきまりや仕組みを軽んじることなく、為政者やその務めに従事する者を重んじて従うことが勧められています。それが「神の御心」だからです。神の愛をいただいて、良い業に励むことによって、キリストとキリスト者に対する批判の言葉は沈められます(15節)。しかし、神の御心に反してまで服従することは求められていません(使徒言行録4章19~20節)。
わたしたちが、服従することに難しさを覚えるときにこそ、キリストが服従された事柄を深く思い、「主のために」という視点をいただいて、この世におけるわたしたちの立ち位置、立ち振る舞いを選ばさせていただくのです(19~21節)。

2.わたしたちの自由  16~17節
さて、神のものとされた者の服従は、自発的なものであり、そこには喜びと自由が伴います。ですから、「自由な人として生活」するのです。しかし、その自由は、悪事を行なう言い訳や欲望からくる行いを正当化するために用いてはなりません。「主のために」用い、「神の僕として」の言動をするのです。
神の僕として仕えることが自由な生き方ですが、具体的にそれを貫く生き方があります。すべての人を敬い、重んじることです。教会の交わりにおいて、兄弟姉妹を愛することです。神を畏れる信仰を抱き続けることです。神が立てられた為政者を正当に評価し、神の御心に従った社会の秩序維持に努めることです。そのようにして、神に仕える自由を用いさせていただきましょう。