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2015年7月

礼拝ご案内・行事予定(2015.8)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び    1階集会室にて
お話は毎回完結します。
いつでもお入りください。
2日(日) 第1聖日 平和聖日礼拝 「主のために」
1ペトロ2章13~17節
 「ダビデとゴリアテ」 サムエル上17:31~49
鎌野 健一
9日(日) 第2聖日 礼拝 「力尽きる時に」
ルカ8章40~56節
祈りと証し
16日(日) 第3聖日 伝道礼拝  「主の愛の支え」
マタイ26章69~75節
「ソロモンの知恵」 列王上3:16~28
真田 重治
23日(日) 第4聖日 礼拝 「信仰の報酬」
ヨシュア146∼15、ヘブライ11
「ソロモンの失敗」 列王上11:1~13
増永  茂
30日(日) 第5聖日 振起日礼拝  「求める者は受ける」
マタイ7章1~12節
「勧めを聞く耳」列王上12:1~16
大塚 章信

 祈祷会   恵みの分かち合い (毎週水曜日)   AM 10:30 ~12:00、PM  7:00 ~  8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

8月行事予定

2日(第1聖日) 平和聖日礼拝 聖餐式 8月誕生者祝福  教会員の御言葉の学び2
9日(第2聖日) 礼拝 役員会
16日(第3聖日)伝道礼拝
23日(第4聖日)礼拝  ギデオン・ラリー 壮年会例会  バルナバ・ミッション祈り会
青年会さんび集会
30日(第5聖日)礼拝  CS振起日合同礼拝

9月行事予定

6日(第1聖日)創立69周年記念感謝礼拝 洗礼式 聖餐式 9月誕生者祝福
13日(第2聖日)長寿祝福礼拝 敬老感謝会  役員会
20日(第3聖日)礼拝
27日(第4聖日)伝道礼拝  アンサンブル・シオン定期演奏会

命を生きる(2015.7.26)

宣教題  「命を生きる」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ16章13~28節

今回は、主イエスがペトロに問いかけられるという形で出会いをされています(26節)。ペトロを招かれた主イエスは(24~25節)、同じようにして群衆をも招かれました(ヨハネ12章25~26節)。主イエスは、私たちにどういう問いかけをもって招かれるのでしょうか。

1.自分の命の重さを見い出していますか
「何の得があろうか」(26節)と問いかけています。主イエスの福音は、私たちに本当の利益をもたらしてくださいます。それは、かけがえのない価値のある「命」です。それを見い出しているかと問いかけておられるのです。
主イエスは、ペトロにそのことを気づかせるために、ご自身が救い主であることを言い表わせるように導かれ、罪と死に勝利をもたらすものであることを明らかにされました(13~20節)。そして、そのことが実現するために、主イエスご自身が「必ず」十字架の死を遂げられ、そこから復活されることを明らかにされました(21~23節)。
主イエスのペトロに対するこのような問いかけは、私たちにもなされています。自分の命の重さと、その命を生きる道に気づかせるためにです。

2.主イエスに任せる生き方をしていますか
さて、自分の思うままに生きる、自分の欲望を満足させるように生きることは、「自分の命」を失うことになるのです。そうではなくて、「自分を捨て」て、すなわち自分にしがみつかないで、十字架に死んで復活された主イエスにしがみついて、その救いに与らせていただくことが大切なのです。主イエスに信頼していくならば、「わたしのために命を捨てる」と言われたように、主イエスに合わせて「命を生きる」ことができるのです(24~25節)。
私たちが真に自分に生きる道は、主イエスの十字架と復活の救いを信じ、このお方に任せて生きることなのです。

賢明な計略(2015.7.19)

宣教題  「賢明な計略」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア9章16~26節 1コリント3章18節

数ある選択肢の中から何を選ぶかで、その人が賢明であるか、明白になる。イスラエルの連戦連勝のしらせにどのように対応するかで、人々の知恵が試された。

1. 賢明そうな計略
イスラエルが攻略したアイからそう遠くない場所に住んでいたギブオンの民は、生き残りのために計略を立てた。古びた袋、靴、外套、干からびたパンを準備して、遠くからの旅人を装い、イスラエルの所に向かった。和を講じ、自分たちが滅ぼされることがないようにと願って行動した。彼らの虚偽をイスラエルは見破ることができず、契約を結んでしまった。三日後にギブオンの民の嘘に気づいたが、時すでに遅く。契約のゆえに、彼らを滅ぼし尽くすことはできなくなった。奴隷の身分ではあるが、ギブオンの民は命が保たれた。失うものも多くあったが、彼らなりの賢明な計略は、それなりに功を奏した。

2. 愚かな計略
ギブオンの民とは対照的なのが、彼ら以外の住民たちである(1~2節)。戦闘によってイスラエルに対抗しようと考えて、諸国連合を結成した。これは愚かな計略であった。10章以降に描かれているように、彼らはイスラエルの前に無残にも敗北する。いのちさえも失った。
彼ら同様に愚かさであったのは、イスラエルの民自身である。旧来の住民たちを滅ぼし尽くすように主から命じられていたのだが、ギブオンの民の計略を見抜くことができず(疑問には思ったが)、主の指示を求めることもなかった(14節)。善かれ悪しかれ、ギブオンの民との共存が彼らの運命となった。

3. 賢明な計略
最も賢明であったのは、2章に登場したラハブである。主のなされたわざを聞いて、主を神として認めた一方で、ギブオンの民のような策略を立てることはしなかったからだ。彼女は、イスラエルの神とその民を信頼することを選び取り、その結果、命が救われ、イスラエルの一員となる。
自分の知恵が神の偉大なみわざを見えなくしてしまうことがある(1コリント3章18節)。不安は確かに残る。しかし、「神を信頼する」選択を「あえて」行うとき、ラハブが味わったように主の真実を体験することができる。神を「あえて」信頼することこそ、最も賢明な計略である。

解き放たれて(2015.7.12)

宣教題  「解き放たれて」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章26~39節

ここに登場する「悪霊に取りつかれている男」の姿は、特別な状況に置かれた人のことを語りつつ、罪と死と滅びにつながれた人の生き方を表しています。そして、主イエスは、そのような人たちをトータルにいやされることを証言しておられるのです。

1.人と人の関係をいやされる
この男は、衣服を身に着けないで墓場を住まいとし、昼夜わめき叫んで自らをコントロールできないでいました。悪魔は、こうしたことを通して、当人だけでなく、周りを傷つけ、破壊しようとしてくるのです。その結果、人間関係がうまくいかない状態にしてしまうのです。しかし、主イエスは、そのような所からこの男をいやされました。
私たちは、主イエスの十字架のもとで、人と人の関係をいやしていただき回復していただけることを信ずるのです。

2.私自身をいやされる
この男は、自分で自分の体に傷をつけていたとあります(マルコ5章5節)。主イエスは、その男の悲惨さに身を置いていやされました。その時彼は、静かにいやし主イエスと向き合って座っています(35節)。
私たちは、善をする力のない惨めな罪人ですが、主イエスの十字架の救いによって解き放っていただけると信ずるのです(ローマ7章24節~8章1節参照)。

3.正しい神理解に変えられる
いやされる前のこの男は、主イエスを高く聖なる神と言い表わしつつも、自分に関わらないでほしと願っていました(28節)。ところが、いやされた後は、イエスの足もとに座っています(35節)。彼は、苦しめる神ではなく、救いの神を知るという正しい神理解に変えられたのです。
私たちは、いかなる時も、救いの神である主イエスにより頼む生き方をするのです。
私たちは、こんなに大きなことをしてくださった主イエスを言い広めていくのです。

美しい生き方(2015.7.5)

宣教題  「美しい生き方」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ2章11~12節

ペトロは、「神のもの」とされた者に対して、「愛する者たち、あなたがたに勧めます」と、どう生きるべきかを語りだしています。この勧めは、一見厳しいように見える生き方ですが、そのような生き方をする中から慰めを得ていくことができます。

1.永遠の今を生きる  11節
この手紙の受信人は、各地に離散し、仮住まいをしている選ばれた人たちでした(1章1節)。それは、自分たちの本国が天にあると告白する人々のことで(フィリピ3章20節)、永遠の故郷である天国を目指して、救いの完成を待望しつつ、一歩一歩と確かな歩みをする「旅人」です。
彼らの信仰の旅路は、まだ終わっていないとの自覚をもって今を生き、この世に置かれていますがこの世のものではなく、この世のことに対して正しい距離を持って歩みます。ですから、この世へと引きずり込もうとして「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」と勧められているのです。私たちは、神と共に在って、敵前にあるとの自覚を持って生きるのです(詩編23編5節a)。

2.真実な愛に生きる  12節
この世のことに対して正しい距離を持つ生き方は、この世の一切のことに無関心で冷淡になることではありません。この世に遣わされ「異教徒の間で」生きるのです。キリスト者は、「悪人呼ばわり」されるような迫害下にあっても、「立派な行ない」すなわち美しい生き方をするように召されているのです。すなわち、贖い主イエスに倣って、真実な愛をもって主イエスを証しすることを通して、非難し誤解する人々が「神をあがめるように」なることを願うのです。
このような生き方は、ベタニアで主イエスに香油を注いだ一人の女性の「良い行い」であり、主イエスを指し示す真実な愛の生き方です(マルコ14章3~9節)。主イエスの愛に応答する生き方、そしてその愛に服従する生き方ことが、美しい生き方なのです。