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2015年1月

礼拝のご案内・行事予定(2015.2)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び    1階集会室にて
お話は毎回完結します。いつでもお入りください。
1日(日) 第1聖日 総会礼拝
「伝えられる恵み」
1ペトロ1章9~12節
幼子のように
マタイ18:1~5
鎌野 健一
8日(日) 第2聖日 礼拝
「神のわざを記憶し続ける」
ヨシュア4:1−24、2テモテ2:8
祈りと証し
15日(日) 第3聖日 礼拝
「涙の出会い」
ルカ7章36~50節
七たびを七十倍するまで
 マタイ18:21~35
 大塚 章信
22日(日) 第4聖日 伝道礼拝
「神の出番」
マルコ2章1~11節
仕える生き方
 マタイ20:20~28
  佐藤 正雄

 祈祷会   恵みの分かち合い (毎週水曜日)   AM 10:30 ~12:00、PM  7:00 ~  8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

2月行事予定

1日  (第1聖日) 総会礼拝   聖餐式  教会総会 2月誕生者祝福
8日  (第2聖日) 礼拝 教会員の御言葉の学び5  役員会
15日(第3聖日)   礼拝 各会総会
22日(第4聖日)伝道礼拝

3月行事予定

1日  (第1聖日)礼拝 聖餐式 3月誕生者祝福  新任教師研修会1
8日  (第2聖日)礼拝 役員会  新任教師研修会2
15日(第3聖日)伝道礼拝 Happy Sheep  新任教師研修会3
22日(第4聖日)礼拝 春の聖会
27-29日 JC&YCスプリングキャンプ
29日(第5聖日)パームサンデー礼拝  新任教師研修会4

 

仰ぎ見て生きる(2015.1.25)

宣教題  「仰ぎ見て生きる」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ21章15~23節
「ヨハネによる福音書」は、真実な神の愛が響き渡っています。その神を仰ぎ見ることが信じることであり、そこから神と私たちとが響き合う間がらとしての人生がつくられていくのです。それは、どのように生きる日々となり、人生となるのでしょうか。

1. 主体的に生きる
復活された主イエスは、ペトロにこれからの生涯の生き方について話されました。ペトロが、仲間のヨハネを見て、「主よ、この人はどうなのでしょうか」と尋ねました。それに対して、主イエスは「あなたは、わたしに従ってきなさい」と言われました(20~22節)。それは、人がどう見ているか、何と言っているかでなく、神がどう見ておられるか、何といっておられるかに関心を持つようにということです。
このように、主イエスは、ご自身を仰ぎ見て、主体的に生きることを一人一人に勧められるのです。主イエスは、一人一人の魂のために十字架にお架かりくださり、救いの道を開いてくださることによって愛を現してくださいました。人を見てがっかりしたり、逆に威張ったりして振り回されるのではなくて、一人一人を神は愛してくださり、期待しておられることを知って歩み出したいものです。

2. 使命に生きる
ペトロは、主イエスの十字架を前にして裏切ったことを悩み、心痛み悔いていました。主イエスは、ペトロに「わたしを愛しているか」と問いかけられたとき、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えていますが、それを三度も繰り返されています(15~17節)。主イエスを信じることは、変わらずに愛し抜いてくださる主イエスを愛することなのです。
続いて、主イエスは、ペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と使命を託し、「わたしに従いなさい」と招かれたのです(15~19節)。このようにして、主イエスはペトロを信頼され、ペトロもまた主イエスを信頼したのです。
十字架で身代わりの死を遂げられ、復活された主イエスを仰ぎ見るならば、私たちの生き方は変わってくるのです。

試練の中での喜び(2015.1.18)

宣教題  「試練の中での喜び」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ1章6~9節
聖書は、試練は逃れるべきものではなく、積極的に受けとめ、それを生かし、そこから希望を見つめていくことを勧めています。ペトロは、試練を経験している人たちと喜びにおいて一つとなり、喜びに支えられていることを語っています(6節、8節)。その喜びは、どこから生まれてくるのでしょうか。
1.神の栄光にあずからせていただいているから  6~7節
ペトロは、神からの生き生きとした希望、天に蓄えられている財産、準備されている救いの恵みの偉大さに圧倒されています(3~5節)。彼は、それにあずかっている喜びを人々と分かち合いたいと願っています(6節a)。
一方、ペトロは、必然としての、今しばらく間の、色々な試練という現実にも人々の目を向けさせています(6節b)。その試練は、決して不必要であり、無駄であるというものではありません。なぜなら、その試練のただ中にあって、信仰が試されることによって純粋な信仰が残こり、キリストの再臨のときに神の栄光にあずからせていただけるからです(7節)。
試練と悩みは切り離すことができません。しかし、キリストご自身が私たちの悩みを共感してくださり、私たちの傍らで支えていてくださるのです(ヘブライ4章15節)。
2. 魂の救いを受けているから  8~9節
このようにペトロは、キリストが再臨されるときに神の栄光にあずからせていただけるという救いが、いかに確かなものであるかを知っていました。さらにペトロは、キリストを直接に見ていない人々が彼と同じようにキリストの確かな救いにあずかって、キリストを愛し、キリストを信じ、歓喜していることに感動しています(8節)。それは、彼らがキリストによる全人格的な救いをいただいていたからであって、彼らの信仰の実りによるのです(9節)。
このように、試練の中にあっても、キリストに自分の全存在をゆだねることによって歓喜が生まれてきます。私たちの教会は、試練の中で、喜びに満ちあふれた力ある信仰者の群れであらせていただきましょう。

約束の地の保証(2015.1.11)

宣教題  「約束の地の保証」          宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア3章1~17節  エフェソ1章13~14節

約束の地に数多くの民が住んでいることをイスラエルの民は知っていた。だからこそ、彼らを完全に追い払うことができるのか、不安であった。しかし、彼らの神は、約束の地の保証を与えられる。

1. エジプトを打ち破られた神があなたがたの間におられる
ヨシュアたちがヨルダン川の岸に着く時から遡ること40年前、主は、エジプトの葦の海を乾いた地に変え、イスラエルの民にそこを渡らせた。そして、同じ海の水を神は用いて、追い迫るエジプトの軍隊を完全に打ち破られた。イスラエルの民たちの真ん中で、レビ人の祭司たちが担いでいた契約の箱は(3:6)、出エジプトの際にモーセと共にいた主が、ヨシュアやイスラエルの民と今、共におられることの証ししている(3:7)。そして、この方が、驚くべきことを行われる(3:5)。

2. 水がせき止められることが約束の地での勝利の保証である
ヨシュアは、契約の箱を担ぐ祭司たちに対して、ヨルダン川の水際に行き、川の中で立ち止まるように命じた(3:8)。祭司たちが契約の箱を担いで民の先頭を進み、ヨルダン川にその足を浸けた時、川の水は壁のように立ち止まった。そして、民たちは干上がった川床を渡ることができた(3:14−17)。この出来事こそが、約束の地に住む諸国民を主が完全に追い払うことの保証である(3:10−13)。40年前、大国エジプトとその強力な軍隊を水をもって打ち破った方が、確かに今、イスラエルの民と共にいることをこの出来事は証言しているからである。どのような強大な敵もおそれるに足らない。

3. 新天新地における復活のいのちの保証
私たちクリスチャンには、死に打ち勝つ復活のいのちの保証が与えられている。イエスの十字架と復活を通して神が死に打ち勝たれたことを福音が私たちに告げているからであり、イエスを死人のうちから復活させた聖霊が私たちに信仰を与えて下さっているからである。つまり、私たちの復活の約束の証印であり、新天新地が私たちに与えられることの保証は、私たち教会に与えられている聖霊である(エフェソ1:13−14)。そのような保証が与えられているのだから、激流に一歩踏み出す勇気の源である方に信頼しつつ、死の恐れに惑わされることなく、歩み続けていこう。

真実な愛を生きる(2015.1.4)

宣教題  「真実な愛を生きる」          宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  ヨハネ15章13~15節

私たちは、キリストの捨て身の愛の中におり、聖霊によって神の愛を注いでいただいて愛に生きる者とされました(1ヨハネ3章16節)。そのような私たちが歩む信仰の道は、主の弟子たちが歩んだように、「友のために自分の命を捨てる」というキリストの道を歩むことです(ヨハネ15章13節)。

1.真実な友を持つ
私たちは、貧・病・争・死といった人生の問題の受けとめ方を大きく変えてしまうほどの感化を与える友を持っているか、と問われています。また、他者に対してどれだけ友であり得るかとも問われています。誰もが、ご自分の命を捨ててくださったキリストの中に真実な友の姿を見い出し、キリストを真実な友として受けて入れ、信じ、信頼することが必要です。
私たちは、キリストを真実な友として歩む中にも人生の問題を抱えるでしょう。しかし、その意味合いは変わってきます。それらが、キリストの愛から私たちを引き離すことはなく、私たちを愛してくださるキリストのゆえに勝利を収めているからです(ローマ8章35~37節)。ですから、キリストの愛の勝利に委ねていけるのです。

2.真実な友と共に生きる
キリストを真実な友とした者は、そのキリストと共に生きるのです。キリストが私たちを友としてくださるのですから、私たちもキリストのお心、思い、願いに生きる友とさせていただくのです(ヨハネ15章14~15節)。
そして、キリストと共に他者の友になるのです。何よりも「福音に共にあずかる」友となるのです(1コリント9章23節)。共に福音にあずかるとは、いい所だけをいただくのではなくて、キリストが捨て身の愛をもって命を投げ出してくださったのですから、自分だけではなく友の救いのために命を投げ出すことなのです。
新しいこの年に、私たちは、一人の友の救いのために、喜んで執り成しの祈りをし、奉仕をし、献げて仕えていきましょう。真実な友と共に生きる教会であれ!

キリストの愛を知って(2015.1.1)

宣教題  「キリストの愛を知って」   宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  1ヨハネ3章16節

私たちの神は、一つの所にその愛を集中させ、独り子をお与えくださいました(ヨハネ3章16節)。一所懸命に神が私たちを愛してくださったのです。今年の教会標語である「福音にあずかる」とは、キリストの愛の現れである救いを体験的に知ることです(1ヨハネ3章16節)。

1.キリストの捨て身の愛の中にいる 
キリストの捨て身の愛は、夫婦の愛、親子の愛、教友の愛、友人の愛といった互いの愛とは比べることはできないほどの犠牲を伴うものでした。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました」とあるように、そのご降誕から地上の生涯の全てにわたって命を投げ出し、十字架の死にまで至ってくださいました。
私たちは、キリストの愛の中に安んじて生きることに、不安になることがあります。自分の救いを実際の神の御業よりも小さく考えてしまうからです。私たちは、自分が知っているよりも、もっと大きく救われているというキリストの愛を体験的に知って、その愛の中に生きる者とさせていただきましょう(1ヨハネ3章19~20節)。

2.聖霊によって神の愛が注がれている 
神の愛は、キリストの十字架と復活という救いの御業によって実現され、聖霊によって私たち一人ひとりに具体的に注がれています(ローマ5章5節)。
この聖霊によって神の愛が注がれ続けているなら、愛が愛を生む力となって言動に表れてきます。「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」との豊かな永遠の命に生きる者とされるのです。このことが、互いに愛し合い(1ヨハネ3章11節)、兄弟を愛する(同14節)という教会の交わりの中で培われているかと問われています。さらに、教会の枠を越えて、家庭における夫が、妻が、子どもが、両親が兄弟となってキリストの愛の対象となっているかと問われています。
私たちは、その日常の日々の生活の中において、キリストの愛を体験的に知ることが大切なのです。