題 :「あわれみの王である神」 宣教: 鎌野 直人 協力牧師
聖書 : 出エジプト34章1~9節 ローマ5章8節
王である神が私たちのところに来られることを覚える季節がアドベントである。それでは、頑なな私たちのところに来て、共に歩まれる王とはどのような方なのだろうか。
1.力ある王
出エジプト記に登場するイスラエルの神である主は、巨大国エジプトの王であるファラオと戦われ、その軍隊に完全な勝利を取られた、力ある神である。しかし、頑ななイスラエルは、王である神が守るようにと伝えたことばに従わず、結果的に、神はイスラエルの敵となられた(32章)。イスラエルはかつてのエジプトの立場に置かれ、主はイスラエルと共に歩まないと言い切った(33:1?3)。しかし、モーセは、主が民と共に歩むことなしに、民はその使命を果たせないことを知っていたので、主がモーセ自身、そしてイスラエルの民と共に行くことを求め(33:15~16)、そのことの保証として、「あなたの栄光をお示しください」(33:18)、つまり神の本性を現してくださるように求めた。
2.あわれみの王
一人でシナイの山に上ったモーセ(34:1?4)に主は「主の御名」(34:5)を示された。イスラエルの信仰告白ともいえる34:6-7に主の姿が見事に描かれている。二つの特徴がある。まず、王である神はあわれみ深く、ゆるされる方。頑ななイスラエルに耐え忍び、彼らの罪と背きと過ちという重荷をすぐに罰することはない。むしろご自身がその重荷を負い、それをゆるす。もう一つの特徴は、王である神は罰すべき者を必ず罰する方。頑なであることが生む罪の責任を神は問われる。この二つの特徴のゆえに、あわれみと公平な神は信頼に足るお方である。そして、この神のゆえに、希望がなくなることはない。頑なな罪人、神の敵のためにも道を開いて下さったのがイスラエルの神であり、クリスマスにその誕生を祝うイエスである(ローマ5:8)。
イエスがあわれみの王であるからこそ、頑なな私たちも神の民として継続して歩むことができる。そして、頑なな私たちも変えられ、「主の嗣業」(34:9)となる使命を果たすようになる。他とは異なる、特別な存在として、あわれみの王イエスを証し続ける者へと変えられる。