宣教 川原﨑晃牧師
聖 書 ルカ7章11~17節
主なる神は、私たちの人生のすべての日々を知っておられ(詩編139編16節)、死の世界にも踏み込んでこられるお方です(同8節)。本日の箇所は、無名の母親の一人息子の葬儀が執り行われている場面です。そこには、人の死という悲しみを乗り越えていく力と希望が、主イエスにはあることを明らかにしています。
1.憐れみ、顧みてくださる主
夫を亡くし、今また息子が死んだことによって、母親は失望と悲しみと寂しさに打ちひしがれていました。「主はこの母親を見て、憐れに思い」(13節)、深い同情を寄せられて、その痛みをご自分のものとされています。それは、主イエスが彼女のところに訪れてくださり、「心にかけ」顧みていてくださることなのです(16節)。
主イエスは今も変わらず、罪と汚れにみち、死の不安と恐れの中にある一人一人を訪れてくださり、より近く一緒に歩んでくださり、顧み、深い同情を寄せてくださっています。この憐れみの主イエスの招きがあるゆえに、私たちはより神に近づき、神と共に歩むことができるようになるのです。
2.泣くな、起きよと宣言される主
主イエスは、母親に「もう泣かなくともよい」(13節)と言われ、息子に「若者よ、あなたに言う。起きなさい」(14節)と言われました。このように、すでに失った希望、口に出したくないと思いながら押し殺してしまった感情、失ってしまった目標の中に生きる者に御言葉をかけてくださるのです。ここに、主イエスがとどけてくださる救いがあります。
キリスト信仰は、主イエスの復活から始まりました。と言うのも、主イエスの十字架の死に際して、主の弟子たちは悲しみと失望の中にありました。しかし、復活されたことを知るや、「それでは一体あの十字架は何であったのか」とその意味を探り始め、その結果十字架と復活の信仰に堅く立ったのでした。復活の主イエスの恵みのご支配は、死よりも強いのです。
復活の主イエスは、今も変わらずに「もう泣かなくともよい」「起きなさい」と語りかけておられます。棺の傍らに立つ者も、この望みの福音を語るのです。