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2014年7月

傷つくまで愛する愛(2014.7.27)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ヨハネ19章17~30節

全ての人に「傷つくまで愛する愛」を注ぎ与え尽くしてくださったのが、イエス・キリストです。それを具体的に現してくださったのが、主イエスがお架かりくださった十字架においてでした。このことを信じることによって、私たちに神の救いがもたらされたのです。

1.愛のあまりに黙された  17~24節
主イエスは、人々の裏切り、離反、嘲笑、ののしりの中にあっても、それらの人々に対して愛を貫かれました(ヨハネ13章1節)。そのために、口を開くことなく黙し続けられました(イザヤ53章7節)。
主イエスがそのようにされたのは、彼らの無知蒙昧さ、愚かさの罪からの救いのためだったのです。そのことが分かると、主イエスが十字架にお架かりくださったのが「私の罪のため」であったことが、はっきりするのです。

2.愛のあまりにとりなされた  25~27節
一方、十字架上の主イエスは、その周りにいる人々に対して、とりなしのわざをなさいました。母マリアと弟子を引き合わせることによって新しい神の家族の 交わりを作られました。そのように忠実に主イエスに従う人たちだけにではなく、悔い改める人のため、悔い改めずにいる人のためにもとりなさいました(ルカ 23章32~43節)。
私たちも、今も変わらずに、主イエスが愛の限りを尽くしてとりなしていてくださる「十字架のそばに」身を置こうではありませんか。

3.愛のあまりに身代わりの死を遂げられた  28~30節
主イエスが十字架の上で「成し遂げられた」ことは、私たちの罪と死の責めを身代わりに受けとめ、救いを完成してくださったことでした。
この時、主イエスは身代わりとなって、罪の審きを体で味わい「渇く」と言われました。それは、神からも人からも捨てられるという苦痛の叫びです。このよ うに主イエスが代わって十字架に死んでくださったからこそ、私たちの魂の渇きが癒されるのです。私たちはこの招きに応答して、ただ信じるのみです(ヨハネ 6章35節)。

揺るがない心で

「揺れ動く地に立ちて・・・」と歌う賛美は、まさに、地が揺れ動く地震のなかから生まれた歌なのだそうです。
私たちの人生には、まるで地震のように足元が揺れ動くようなさまざまな場面に直面します。家庭の崩壊、経済的な破綻、また健康に不安を覚える、そのようななかで、私たちはどう対応したらいいのか分からなくなることがあります。私たちは、さまざまな変化するもの、動くものに目を留めていると、自分自身もグラグラ揺れて心まで動揺してしまう、ということがあると思います。
しかし、聖書は『イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です』と語っています。このイエス・キリストに私たちの心が固定されているならば、心は揺れ動くことがないとの確信をいただいて生きることができるのです。

神戸中央教会 牧師 川原﨑晃

何を土台に(2014.7.20)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ6章46~49節

私たちの歩みまた教会の歩みは、家を建て上げていくようなものです。そこには洪水のような思いがけない苦難や試練が押し寄せてきます。それに耐えられるのは土台しだいです。その土台に関心をもち、揺るがない確かな土台に立つことが大切です。

1.主の御言葉に立つ
私たちは、恒産なければ恒心なしと言われるような目に見えるものを土台とした人生を構築しようとします。しかし、揺るぐことのない確かな土台は、主イエ スが語られた御言葉が神の御言葉であると間違いなく聞きとって、それに生きることなのです。同じように主の御言葉を聞いても、それとは異なった生き方を し、時に間違った生き方をしてしまうことがあるからです(46~47節)。それが、岩の上に土台を置いて家を建てているか、土台なしで地面に家を建ててい るかの相異なのです。
私たちは、「御言葉が与えられた」との信仰に立って歩むという良い伝統をいただいています。しかし、それが神の名を利用し、実は自分の考えや意思を貫こうとするように土台が傾いていたり、土台が無いような状態となったりしていないか、と問いかけることは必要です。

2.主の御言葉を深める
私たちは、思いがけない洪水が押し寄せるような不幸と思える出来事に遭遇します。たとえ平穏無事であっても、罪と死の洪水は全ての人に訪れます。しか し、ここで主イエスが語っておられることは、私たちは、叫んでも泣いても崩れることのない土台である主の御言葉の上に立っているのです。
従って、家を建てるに際して、土台に労力や資材をつぎ込んで元手をかける必要があるように、「地面を深く掘り下げ」る必要があるのです(48節)。すなわち、主の御言葉に立ち続けるには、熱心さと真剣さ、時には犠牲をも必要とするのです。
主の御言葉を聞いて、その御言葉に立って深めていく時に、その御言葉の真実が分かるのです。その御言葉に生きてみて初めて、その強靭な力を味わい知るのです。

喜びに満ちあふれて生きる秘訣(2014.7.13)

宣教:池口留都 伝道師
聖書:1ヨハネ1章5~10節

ヨハネの手紙一が書かれた目的(3、4節)でもある、クリスチャンが喜びに満ちあふれて生きる秘訣は、2つの交わりに生きることです。それは、御父と御子イエス・キリストとの交わりと、互いの交わりです。この2つは切り離せません。

1.御父と御子イエス・キリストとの交わりに生きる
(1)ありのままの自分を受け入れる難しさ
「神は光である」(5節)とあるように、光である神様の前ではすべてが明らかにされます。一方私たちは闇の中にいます。闇の中で自分探しをしますが、現実の自分を受け入れるのは難しいことです。特に、神様の光は、それまで知らなかった、罪深い自分の現実の姿も明らかにします。それを認めて受け入れること に、難しさを感じます。こんな自分は受け入れられないのではないか恐れるからです。
(2)ありのままの自分を受け入れてくださる方
そんな私たちの本当の姿をすべて知った上で、私たちを受け入れてくださる方こそ、イエス様です。イエス様は私たちをそのままで受け止めてくださり、私た ちを闇から光へ招き入れるために十字架にかかってくださいました。もし私たちが、光によって照らし出されるありのままの姿、罪を「その通りです」と認める なら、神様は赦して下さいます(9節)。イエス様の血が私たちを覆い、清め続けてくださるからです(7節)。私たちの恐れは取り除かれ、自由に神様との交 わりを持ち、その中に憩うことができます。そこに、喜びが満ちあふれます。

2.教会の交わりに生きる
愛と赦しを受け取った私たちは、他の人と関わる勇気と、一緒に歩む交わりを与えられます。それが教会の交わりです(3節)。神様との交わりは私たちを教 会の交わりに導き、また、教会の交わりを通して、私たちは成長させていただき、さらに神様との交わりを深めさせていただきます。2つの交わりに生かしてい ただきましょう。

元気を出しなさい(2014.7.6)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: 使徒言行録27章13~38節

パウロのローマ行きという神の御計画は変わらず、度重なる困難を経て実現されていきました(13~20節)。彼は、暴風で荒れ狂う海に漂流する船の中で、神の必然を信じつつ、同船者に「元気を出しなさい」と語り続けたのでした(22節、25節)。

1.愛の励ましをもって  21~26節
暴風が激しく吹きすさぶので、「ついに助かる望みは全く消え去ろうとしていた」(20節)時、同船者たちはパウロの救いの言葉を聴くことができたのでした。彼は、絶望と無力のどん底にある彼らに、「元気を出しなさい」と励ましたのです。
パウロは、なぜこのように並はずれの寛容と愛をもって人々を励まし、助けようとしたのでしょうか。彼がローマに行って福音を語ることは、神からの必然的 使命だったからです。神は、航海中の全ての人を彼に任せておられたからです。神が彼に告げられたことは、必ずそのとおりになるとの御言葉信仰に立っていた からです。彼は、死をも乗り越えさせる復活信仰に立って、最後まで諦めなかったからです(24~26節)。このように、いかなることが起こったとしても、 それを神の恵みへの応答のチャンスとしようという捉え方で歩む生き方が求められます。

2.愛の連帯感をもって 27~38節
漂流中の船か浅瀬に乗り上げようとした時、船員たちは乗船員を助けようとしないで逃げ出そうとしたのをパウロは阻止しました(27~32節)。そして、 すでに全員が助かると語っていたパウロは(22~26節)、疑心暗鬼になっている乗船員に、信仰の確信に立って元気づけたのです。それは人々の心を奮い立 たせました(33~34節)。
さらに、復活の主イエスが共におられ、人々に元気を与えてくださることを分かち合うために、パンを裂いて共に食しました。自分たちだけ助かろうとした船員 を排除することなく、愛の共同体として受け入れ合ったのです(35~37節)。そこにいた全ての人が、同じ苦難を経験した者として、愛の連帯感の中に導か れたのです。
このように、神の御業は、日々に御言葉を聴き従いつつ歩む信仰者を通して展開されていくのです(23章11節、27章23~24節)。