宣教 :宇井英樹 宣教師
聖書 :ルカ4章43節
貧しさや弱さ、社会的不公平や抑圧の中にいる人々、またそのような状況により壊れた家族、愛を経験していない人々に間近に接するなか、福音宣教とは何かについて考えさせられる。
人は「神のかたち」に造られた(創世記1章27節、口語訳聖書)。しかし、それが壊れている。その回復こそが、福音宣教の本質である。福音が良い知らせであるのは、神の国の訪れ、つまり神の義と神の愛の支配が、生活の中に具現化されていくからである。
1.誘惑 (ルカ4章1~12節)
(1)パンをあげる:一時的に物質的な必要に応える。「与える側、受ける側が定着する時、人間としての尊厳が失われる」(本田哲郎)。
(2)政治的な権威:軍事力、経済、科学などの人間的な支配力、影響力で変えようとする。「富や権力によっては人も社会をも救済できない」(本田哲郎)
(3)神をコントロールしようとする:自分たちの思い描く理想を立てあげようとする。そして、神の愛、あわれみ、助けを疑う。
2.神の国の具現
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1章15節)。
悔い改めとは、神の視点で物事を見る。神の国のパースペクティブ(展望)で生きること。福音宣教は神によってなされる。神と心一つにする人々を通して進められる。
一般的な人々と強い立場の人々は、悔い改めの実として、公義を行うようになる、神の国と神の義を求めて生きるようになる(ルカ3章10~14節)。
神は、神の国を具体化するために、弱い立場にいる人々、貧しい人々を用いる(イザヤ26章6節)。彼らも悔い改めが必要。彼らに意識の転換が起ことなし に、彼らの「神のかたち」は回復されない。彼らが自分たちを神の視点で見ることなしに、彼らの社会のなかに神の国は具現化されない。(ルカ14章34節) 「世が腐ってきた、光が失われたと、クリスチャンが文句を言うときは、自分たちが世の光、地の塩としての責任があることに目覚めるべき時」(ジョン・ス トット)。
福音はどうしても伝えられなければならない。貧しい人々、弱い人々にも、一般の人々にも、強い立場の人々にも。福音のみが、神のかたちを回復し、そこに神の国をもたらすのである。