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2014年6月

愛の秘密(2014.6.29)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書: ヨハネ18章15~18節、25~27節 1ペトロ3章18節abc

聖書は、多くの人の神との出会いが記されている書といえるでしょう。ここでは、ペトロと主イエスとの出会い、その出会いが閉ざされずにどのように続いていったのかが語られています。それは、神の愛の秘密とも言えるような出来事でした。

1.私ではない  18章17節、25節、27節
ここでは、主イエスが十字架にお架かりなる前日に、その主イエスを裏切るペトロが語られています。ペトロは、主イエスの弟子だと指摘されたことに対し て、「違う(私ではない)」と言って、三度も主イエスを拒んだのでした。ここには、強い決意を持っていたペトロの無力さ、自分の決意や努力で神の前に正し く歩むことのできない彼の姿があらわにされています。この時、ペトロと主イエスとの距離は門の内外のわずか数メートルに過ぎなかったことでしょう。そんな に近くにおられる主イエスに「私ではない」「知らない」と言ったのでした。
「私ではない」と言い張って主イエスと関わりを持とうとしないで、神に背を向けて生きていこうとすることが罪なのです。その意味では、ペトロと私たちとは同じであることを認めざるを得ないのです。

2.わたしである  18章5節、6節、8節
この時同時に、主イエスは人々に捕らえられて、大祭司のもとに連行され尋問を受けておられました(1~14節、19~24節)。「ナザレのイエスだ」と 答える人々に対して、主イエスは「わたしである」と言われたと三回記されています。ここで主イエスは、ご自分を公然と明らかにされたのでした。このように して、裏切る者たちのために、主イエスは裏切ることなく十字架の道を歩まれたのでした。
このように主イエスは、私たちの弱さや罪ある者であることをよくよく知ったうえで、それらを包みこみ、見捨てることなく、身代わりとなって十字架に架 かって救いを全うしてくださったのです。それは、主イエスの愛を受けるに値する者として「神のもとへと導くため」だったのです(1ペトロ3章18節)。こ の主イエスの愛に包まれて歩み続けていきましょう。

どうしても伝えられなければならない福音(2014.6.22)

宣教 :宇井英樹 宣教師
聖書 :ルカ4章43節

貧しさや弱さ、社会的不公平や抑圧の中にいる人々、またそのような状況により壊れた家族、愛を経験していない人々に間近に接するなか、福音宣教とは何かについて考えさせられる。
人は「神のかたち」に造られた(創世記1章27節、口語訳聖書)。しかし、それが壊れている。その回復こそが、福音宣教の本質である。福音が良い知らせであるのは、神の国の訪れ、つまり神の義と神の愛の支配が、生活の中に具現化されていくからである。

1.誘惑 (ルカ4章1~12節)
(1)パンをあげる:一時的に物質的な必要に応える。「与える側、受ける側が定着する時、人間としての尊厳が失われる」(本田哲郎)。
(2)政治的な権威:軍事力、経済、科学などの人間的な支配力、影響力で変えようとする。「富や権力によっては人も社会をも救済できない」(本田哲郎)
(3)神をコントロールしようとする:自分たちの思い描く理想を立てあげようとする。そして、神の愛、あわれみ、助けを疑う。

2.神の国の具現
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1章15節)。
悔い改めとは、神の視点で物事を見る。神の国のパースペクティブ(展望)で生きること。福音宣教は神によってなされる。神と心一つにする人々を通して進められる。
一般的な人々と強い立場の人々は、悔い改めの実として、公義を行うようになる、神の国と神の義を求めて生きるようになる(ルカ3章10~14節)。
神は、神の国を具体化するために、弱い立場にいる人々、貧しい人々を用いる(イザヤ26章6節)。彼らも悔い改めが必要。彼らに意識の転換が起ことなし に、彼らの「神のかたち」は回復されない。彼らが自分たちを神の視点で見ることなしに、彼らの社会のなかに神の国は具現化されない。(ルカ14章34節) 「世が腐ってきた、光が失われたと、クリスチャンが文句を言うときは、自分たちが世の光、地の塩としての責任があることに目覚めるべき時」(ジョン・ス トット)。

福音はどうしても伝えられなければならない。貧しい人々、弱い人々にも、一般の人々にも、強い立場の人々にも。福音のみが、神のかたちを回復し、そこに神の国をもたらすのである。

この喜びを地の果てまで(2014.6.18)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ24章44~53節

キリストは、十字架に死んで3日目に復活され、その後40日目に昇天されました。「そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(51節)とありま す。これは、キリストが弟子たちと一緒におられた地上の生活とは異なる在り方になられて、いつでも、どこでも私たちと共にいてくださるということです(マ タイ28章20節b)。

1.それで十分なのか  50~53節
「ルカによる福音書」を締めくくる記述は、この福音書の続編とも言うべき「使徒言行録」に受け継がれています。ここには、弟子たちがキリストから祝福を受け、「大喜び」で神殿の境内で神をほめたたえていた幸いが語られています。
キリストは、「祝福しながら」共にいてくださるお方です。弟子たちは、そのキリストのご支配にあることを覚えて伏し拝みました。そして、故郷のガリラヤ ではなく、いかなる困難が待ち受けていても「大喜びでエルサレムに帰り」、いかなる時にも「神をたたえていた」のです。
ここに、キリストの福音の喜びに与かっている人々の姿があります。では、これでもう十分であり、この上何も必要ないのでしょうか。

2.なお必要を  47~49節
キリストは、「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(49節、使徒言行録1章3~5節)と命令されています。ペンテコステの日に、聖霊が降り、聖霊に満たされる必要があったのです(使徒言行録2章1~4節)。
確かに、弟子たちは、神をほめたたえていましたが、その信仰は個人的な領域にとどまっていたものでした。神の計画は、彼らが教会を形成し、地の果てまで 福音を宣べ伝えるキリストの証人となることでした。その意味で、信仰が個人の幸せにとどまっていてはならないのです。そのためには、困難をも乗り越えさせ る聖霊の力が必要だったのです(使徒言行録1章8節)。
私たちは、救いの喜びを与えられています。しかし、ルカによる福音書で終わらずに、今もなお、使徒言行録に生きる必要があるのです。

主のもとへ立ち返れ(2014.6.15)

宣教: 鎌野 直人 協力牧師
聖書: ホセア14章2~10節 ルカ15章22~24節

父親と子どもとの関係は、結構難しい。その関係が崩れてしまったとき、その回復には非常に時間がかかる。ルカによる福音書15章に登場する弟息子とその父 との関係もそうだった。父の財産を生前に受け取り、自分の村から都会へ出た息子は、父を裏切ったという思いを持ちながら生きていただろう。父は自分に対し て憤っていると考えたに違いない。息子は落ちぶれて、間違いに気付いたが、父のもとにすぐに帰ろうとはしなかった。父は自分など受け入れてくれない、と 思っていたからだ。この息子と同じような状況にあったのが、ホセアの預言のことばを聞いたイスラエルである。そして、彼らにとっての父とは、イスラエルの 神であった。

1.もう憤ってはいない(ホセア14章5~9節)
神はイスラエルになんと語るのだろうか。「わたしの怒りは彼らを離れさった」(5節)。神がもう憤ってはいない。裏切り、背いたイスラエルを神はいや す。憤りではなく、喜んで愛し、関わる。神の癒しは、「露のようにわたしはイスラエルに臨」(6節)む。真夏の夜に降りる露によって、雨など一滴も降らな い地にも命を保持されるように、主はイスラエルの命を回復し、その美を回復する。そこは麗しい楽園となる(6~8節)。命が回復されたイスラエルが神に求 める時、神は彼らに答え、彼らを見守る(9節)。イスラエルは確かに裏切ったが、彼らへの神の憤りは終わっている。

2. 生きるために帰る(14章2~4節)
息子が父のところに帰るように、イスラエルは自分の神である主のもとへ帰れ、と預言者は招いている(2節)。もうゆるされているから、他の神のもとでは なく、自分が帰るべき神のもとに帰るのだ。元気になったから帰るのではない。つまずき、倒れているそのままで帰るのだ(2節)。彼らが神のもとに帰ったな ら、神の癒しがそこで現実となる。ゆるされ、よいものが与えられ(3節)、新しい生活、神のあわれみに満ちた生活がそこで始まる(4節)。
放蕩息子は、勇気を出して父の家に帰った。父は憤ってはいなかった。むしろ、走り寄り、最大の祝いの場を準備した(ルカ15章22~24節)。イエスが 十字架に掛かられたゆえに、父である神はもう憤ってはいない。むしろ、最大の祝宴を準備して待っていて待って折られる。父である神のもとに帰る父親にも、 子どもにも、神は新しい生涯、新しい関係を備えておられる。

天からの光(2014.6.1)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録26章1~23節

使徒言行録には、パウロの回心の証しが3回記されています(9章、22章、26章)。その回心は、決して人間の思索の積み重ねによって生まれたのではあり ません。「天からの光」によるのであり(13節)、パウロは「天から示されたことに背かず」、「光を語り告げる」ことに専念しました(19節、23節)。

1.人生を変革する  1~15節
回心するまでのパウロは、律法を重んじ、律法に生きることが何よりも第一のことと考えていましたので、復活のキリストを信じる信仰によって生きている 人々の群れがあることを受け入れることができませんでした(9節)。そこで、彼らを壊滅させることに熱心になったのでした(11節)。キリストは、そんな パウロの行く手を「天からの光」で遮られたのでした(12~13節)。
キリストは、キリスト者の群れの傍らに身を置いて一つになっておられるので、「なぜ、わたしを迫害するのか」と問いかけられ、「わたしは、あなたが迫害し ているイエスである」と語りかけて、パウロを捕らえられたのでした(14~15節)。このように、キリストは、様々な状況にある一人一人に出会ってくだ さって、その全生涯を変革されるのです。

2.周囲に波及する  16~23節
キリストは、人生を変革されたパウロに、「起き上がれ、自分の足で立て」と命じ、キリストの証人として遣わされました(16~17節)。それは、キリス トを信じる人々を大いなる救いの祝福に与らせるために、福音を宣べ伝えるためでした(18節)。かくして、パウロは天から示されたことに忠実で、福音の光 を語り告げたことにより、それが周囲に波及して行ったのです(19~23節)。
このようにキリストは、キリスト者がその言動と存在をもってキリストを証しするように遣わされるのです。私たちは、いかなるところであっても、その置か れたそこを足場として、復活のキリストの証人となるのです。そこにおいて、福音の光が放たれ、波及して行くのです。