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2014年4月

敗者復活の福音(2014.4.27)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ヨハネ16章33節 1ヨハネ5章5節

福音という言葉には、味のある響きがあります。福音は、誰もが聞かなければならないものです。そして、福音を聞いたなら、心を開いて受け入れ、福音に生きることが大切です。この福音の本体は、イエス・キリストご自身です。

1.「負けの味」を知り尽くしていてくださる
私たちが「世に勝つ」ことを願うのは、「世で苦難がある」中に、負ける経験を踏むからです。失敗する、負けるということは、挫折感や敗北感がつきまと い、恥をかいたり、面子もなくなったりします。誰も敗北者になることを好みません。さらに、強くなったら負けない、一生懸命やれば失敗しない、この信心を していたら不幸にならない、信仰をもったら苦しみはなくなるなどと考えがちです。
さて、キリストご自身が、地上の生活のスタートから十字架の死に至るまで、苦しみの連続でした。これを神の大失敗と言う人がいますが、キリストは、人が 経験する苦難や罪や死といったことを知り尽くしてくださったのです。そのような経験をする私たちのところに、キリストがおられるのです。

2.「勝ちの味」を経験してくださった
キリストの救いは、敗者復活の福音です。キリストが捕らえられて十字架に架けられて殺されてくださったお姿は、人の目には敗者としか映らなかったでしょ う。しかし、神の前に立つ私たちは、罪と不信仰の結果、当然神の怒りに触れて滅びへと向かう者でしかなかったのです(ルカ23章41節)。そんな私たちを 救うために、キリストは、苦しみと痛みと辱めのどん底から復活されて勝利者となられたのでした。このようにして、キリストは、勝ちの味を経験されたので す。
それは、私たちが苦難に勝ち、罪に勝ち、死に打ち勝つ勝利者とされるためでした。これは、「イエスが神の子であると信じる者」が与ることのできる勝利で す。それは、私たちがキリストに結ばれて生きるときに、キリストが勝利されたことを共に経験するのです。ここから、「勇気を出しなさい」との人生が始まる のです。

キリストは生きておられる(2014.4.20)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ 24章13~35節

エルサレムからエマオへの道にあった「二人の弟子」は、当初は「目が遮られて」復活されたキリストが分からなかったのですが(16節)、後に「目が開け」 て復活されたキリストが分かるようになりました(31節)。信仰の目が開かれると、生きておられるキリストがどのように見えるのでしょうか。

1.共に歩んでくださるキリスト  13~27節
二人の弟子は、失意の中にあり、途方に暮れていました。というのも、信頼していたキリストを失ったことと、十字架の死のショックに打ちのめされて、キリ ストが見えなくなっていたからです。同様に、私たちは、キリストに対する信仰上のことだけでなく、私たちの日常の生活上のことなどで二人の弟子たちと同じ 経験をするときに、キリストが分からなくなることがあります。
しかし、復活されたキリストは、二人の弟子と一緒に歩き、話しかけ、聖書を説明しておられます。この時、彼らは、その「心は燃えていた」という経験をし ていました(32節)。今も変わらずに生きておられるキリストは、永久に私たちと共に歩んでくださり、御自身を示して、私たちの心が燃えるまで親しく臨ん でくださるのです。

2.共に留まってくださるキリスト  28~35節
その日の夕方、キリストはなおも先へ行こうとされたので、二人の弟子は「無理に引き止め」留まるように懇願しました。その時、キリストと彼らの間には、 賛美の祈りが伴なった聖餐と愛餐、また御言葉による語りかけを通しての親しい交わりが生み出されました。その結果、彼らの目が開かれ、共に留まってくだ さっているキリストが分かったのです。このような交わりは、復活されたキリストによって、今の私たちの間にもつくられています。
復活されたキリストは、今も生きておられます。そして、私たち一人一人にふさわしく、先立って共に歩んでくださり、留まってくださり、私たちの目を開いてくださいます。いかなる時にも、御言葉に立つ信仰をもたせていただきましょう。

栄光の王の入城(2014.4.13)

宣教: 鎌野 直人 協力牧師
聖書: 詩編24編1~10節 ヨハネによる福音書1章11~12節

パームサンデーはイエスがエルサレムに入城されたことを記念する主日である。あえてエルサレムに上っていかれたのは、そこに神殿があったからだ。

1.エルサレムの神殿
「主の家」(詩編23:6)とはエルサレムに建てられた神殿のことである。この神殿を主が特別に選ばれた(聖別)(24:3)。だから、イスラエルの民 は、神に会い、ささげものをし、礼拝するために神殿に上っていった。そして、この神殿を、世界の所有者であり(1)、世界の創造者であり(2)、それを確 かに支えておられる神、天と海と地の王である方が自らの住まいとされた。

2.エルサレムに住むべき人
世界の王である主が住んでおられるエルサレムの神殿に上り、この方に会うことができるのは、どのような人だろうか。人の血を流すことのない「潔白な手と 清い心」をもつ人であり、人を欺く、むなしい偶像を慕わない人である(4)。むしろ、この神殿を住まいとされる主にだけあらゆる求めを祈り求め(6)、力 に満ちた、雄々しい主を自分の王として喜んで迎え入れる人(7−10)こそ、エルサレムの神殿に上るにふさわしい。栄光の王のそばにいて、その祝福と恵み を一杯に受けることができる(5)。

3.イエスが向かわれたエルサレム
イエスはエルサレムに入城され、人々はイエスを王として歓迎した。ところが、エルサレムはいまや流血の町であり、ローマ兵、さらにはユダヤ人によっても 偶像崇拝が行われている町であり、イエスを喜んで迎え入れず、いつ殺そうかと企てていた町であった。そして、イエスを王として迎え入れず、彼を十字架に架 けた。自分の民の所に来たのに、民はこの方を拒絶した(ヨハネ1:11)。王であるイエスはそのような場所に進んでいかれた。
しかし、王であり、主である方を拒絶したエルサレムが栄光に輝く場所となった。拒絶の象徴である十字架が、栄光の王の王座となったからである。だからこ そ、この受難週、私たちが拒絶しても、そこでイエスが神の栄光を表されることを覚え、十字架を通して、神の祝福が神を拒絶する私たちの真ん中に差し込んで いることを覚えたい。この神の恵みがあるからこそ、イエスを王として受け入れるという応答が生まれてくるのだから(1:12)。

キリストを主とあがめる(2014.4.6)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録24章1~27節 1ペトロ3章15節

私たちがキリストに対する信仰の歩みに徹していくとき、キリストの受難と同じような試練を通されることがあります。その経験は、パウロと同じように、十字 架に死んで復活されたキリストにある望みを弁明し、キリストの勝利を先取りする歩みに導かれます。それが、「キリストを主とあがめる」歩みなのです(1ペ トロ3章15節、マタイ6章2節)。

1.キリストにある希望を弁明する  1~23節
パウロは、大祭司アナニアの弁護士テルティオのおべっかと偽りの訴えを受けて、フェリクス総督すなわちローマ法廷に、たった一人で立っています(1~9 節)。彼は、神と人に対して、確かな信仰と責められることのない良心を保ちつつ、弁明しています(10~21節)。彼は、一人で戦ったのではなく、神の前 に、神と共に戦っていることを証ししたのでした。
私たちは、いかなる状況下にあっても、神からの知恵をいただいて、揺るぐことのない復活信仰の希望を、穏やかにして尊大ぶらず、神を畏れて敬意を持っ て、正しい良心で、「あなたがたの抱いている希望について」弁明し語ることが大切です(1ペトロ3章15~16節)。

2.キリストの勝利を先取りして生きる  24~27節
パウロは、総督フェリクス夫妻を救いに導こうとして、「正義や節制や来るべき裁き」について語りましたが、彼らは信仰の応答をしませんでした。このよう に、パウロが潔白で純粋かつ堂々と語ることができたのは、彼自身が、来たるべき神の最後の法廷を目指して、否それを先取りして今を生きていたからです (24~26節)。十字架と復活のキリストが弁護人ですから、常勝不敗の勝利者となれるのです。
さらに、パウロは、時間が経過して状況が変わっても、復活のキリストの約束に立って、神の時を待ったのです(27節)。私たちは、このように待つことを通して、忍耐を学び、御言葉を深く学び、自分自身を深く掘り下げることかできるのです。