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2014年2月

確かな絆(2014.2.23)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ヨハネ15章1~10節

人は、生活や社会の矛盾と苦しみに耐えながら、自分の居場所、心の絆、活躍の機会を探し求めています。それは、確かな愛、確かな繋がり、確かなことをやり 遂げたいと求める人の姿です。主イエスは、「人がわたしにつながって」いるならば、それによって主イエスの豊かな命に生きる者となると語られました(5 節)。

1.主イエスの御言葉にとどまることによって  7節
二人の弟子が、悲しみと失望の中をエルサレムからエマオに向かって歩いていました。復活された主イエスは、彼らに近づいてこられて、聖書全体から福音を 語りつつ一緒に歩かれたのです。夕方になって、二人は主イエスに「一緒にお泊まりください」と呼びとめます。そこでの食事の最中、彼らは目が開けて、とど まってくださった方が主イエスであると初めて気づいたのでした(ルカ24章13~31節)。
ところで、私たちが、弟子たちのように主イエスにとどまってくださいと願う以上に、主イエスが私たちにとどまり、御言葉にとどまり続けるように招いてお られます(5節、7節)。主イエスは、私たちとの命の繋がりを永遠まで持ち続けてくださるお方です。ですから、私たちは、主イエスの御言葉に信頼すること です。

2.主イエスの愛にとどまることによって 9節
主イエスは、「わたしの愛にとどまりなさい」と私たちに向き合ってくださいます。この愛の出会いが最も明らかにされたのは、主イエスの十字架と復活においてでした。この出来事によって、私たちは、抱えている罪と死とから解き放っていただくことができるのです。
そして、私たちは、主イエスとその愛にとどまり続けるときに、神を愛する、人を愛する、教会を愛する愛の実を結ばせていただけるのです。私たちの内にそうする力はないのです。
また、私たちは、主イエスとその御言葉と愛にとどまり続けることによって、互いの間にも確かな絆を築くことができるようになります。天の御国を目指して、主イエスに繋がる信仰の一歩を踏み出させていただきましょう。

祝福の言葉に満ちて(2014.2.16)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ルカ6章20~26節

聖書がいう「幸いである」とは、一瞬のつかの間の幸いではなくて、いつまでも続いている幸いであり、祝福されている状態を表しています。それは、主イエスの口から出た祝福の言葉によって明らかにされています。

1.新しい祝福の言葉を明示する
ここで語られていることは、弟子たちが望んでいたこととは大きく違っていました。それは、この世の価値観とかけ離れており、人間が思い描く在り方とは大 きな隔たりがあります。うずくまるように神だけに全信頼を置いている「貧しい人々は」、神の恵みの支配の中に生かされるのです。神を慕って、愛に「飢えて いる人々は」、神によってのみ満たしていただくのです。自らの真相に「泣いている人々は」、神の救いに与る喜びを知るのです(20~23節)。
このように主イエスが明らかにされた新しい祝福の言葉によって、私たちは、物質的・表面的な尺度による生き方から解放されて、不変的・永遠的な尺度によ る生き方に変えられていくのです。それは、主イエスに結ばれていることによって、死と終わりを直視しながら知る幸いです(ヨハネの黙示録14章13節)。

2.確かな祝福の言葉を告知する
主イエスの祝福の言葉は確かなものです。それは、もともと私たちの内にあるものではなく、語り主であるイエスにあるものです。私たちの内には、喜ぶもの、満足しうるものを持ち合わせていないのです。そして、私たちの口が祝福をもたらす力を持っていないのです。
ところで、私たちは、主イエスの祝福の言葉の取り次ぎ役です。従って、主イエスに仕え、教会に仕え、人に仕える者は、主の祝福の言葉を取り次ぐために仕えているのです。
そのように、確かな祝福の言葉が私たちに告げられているのですから、拒むことなく、受け入れる者となりましょう。また、確かな祝福の言葉が告げられ続けているのですから、いかなる時にあっても、その祝福の中を歩み続けましょう。

畏れを抱いて(2014.2.9)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: 詩編111編1~10節

主イエスは、迷信からくる恐れに対して励ましを(マタイ14章27節)、良心の呵責からくる罪の畏れに対して赦しを(マタイ9章2節)、死への恐れに対して勝利を(ヨハネ20章19節)与えられました。しかし、こうした恐怖の恐れではなくて、私たちが畏敬の畏れを抱くならば、活きた信仰の歩み、活きた教会の歩みとなります。

1.活きた信仰の歩み
詩編111編は、主への賛美で始まり、主に感謝をささげ、主の御業を喜ぶ中から、「主を畏れる」ことを歌っています(5節、10節)。恵み深く憐れみに 富んでおられる主であるからこそ、人は主に深い畏敬の念を抱くのです(4節)。主を畏れるとは、主なる神の救いに対して、自分の心と思いと生活を傾けるこ とであって、信仰者の財産です。
主を畏れることは、私たちの信仰生活を息苦しくしたり、力を失わせたりするものではありません。逆に、私たちがますます主なる神に引き寄せられて、私た ちに豊かな心と力と真剣さとを与えるのです(ローマ8章15節、11章20節)。主を畏れる心に生きることは、主への信仰を活き活きと生きることなので す。

2.活きた教会の歩み
さらに、神を畏れ敬う聖徒の群れこそが教会です(使徒言行録2章41~47節)。そこには、福音の教えに聴従し、聖徒の交わりをなし、聖餐に与り、祈る ことに「熱心であった」教会の姿があります(42節)。これは、時代や場所や状況が変わっても、変わらない教会の活きた歩みであり、主を畏れることを知る 教会であることを証ししています(43節)。
主を畏れる教会の礼拝、祈祷会、奉仕、交わりは、必然的に伝道する教会となるのです(44~47節)。「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一 つにされたのである」と、伝道の主体は、いつも主イエス・キリストであることを証言しています。主を畏れつつ歩む日々が、活き活きと生きる信仰者の歩み、 教会の歩みとなっていくのです。

勇気ある日々(2014.2.2)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書 : 使徒言行録23章6~11節

キリストは、十字架の受難を前にして、弟子たちに「しかし、勇気を出しなさい」(ヨハネ16章33節)と語られ、また宣教の前進を命じられるなかから、パ ウロに「勇気を出せ」と語っておられます(使徒言行録23章11節)。キリストは、今日の私たちにもキリストを信頼し続けて生きる勇気を必要としておられ ます。

1.苦難の中にあって
キリストは、私たちに「世で苦難」を経験することを避けるようにとは言われませんでした(ヨハネ16章33節)。その苦難には、試練があり、嘆きもあり、闘いもあるでしょう。それによって、キリストのものとされた信仰者が、整えられ、造り上げられるのです。
同様に、教会も苦難を経験することによって前進してきました。パウロは、キリストを証しすることが最も難しいと思われたユダヤの最高法院の議員たちに対 して、キリストが救い主であることを証しするチャンスを与えられました。しかも、彼は不思議な方法で、危機一髪のところで助け出されました(使徒言行録 23章6~10節)。伝道の画期的な展開は、迫害などの危機の中で推進されていくのです。

2.主の勝利に与る
私たちは、世にある苦難にあっても、キリストの十字架と復活によって明らかにされた究極的な勝利に与っています(ヨハネ16章33節)。それは、私たち の罪と死という最大の敵に対する勝利です。従って、勇気を出すとは、このキリストの勝利に信仰によって与ることなのです。
さて、パウロは、願っていた通りに最高法院においてキリストを証しできたことにより元気づけられました。にもかかわらず、その夜、勝利の主がパウロのそ ばに立たれて、エルサレムでと同じように、ローマでもキリストを力強く証しすることが必ずできると語られたのです。伝道の画期的な展開は、キリストの臨在 の確かさの中で推進されていくのです。私たちは、ただキリストに信頼し(マタイ14章27節)、勇気ある日々を歩ませていただくのです。