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2013年10月

戻るべき所(2013.10.27)

宣教題  : 「戻るべき所」   宣教:   長田 栄一 牧師
聖    書  : 1ペトロ2章21~25節
あなたがたは…戻って来た」と記されています(25節)。おるべき所から外れて、おるべき所でない場所にいるとき、そこには不安があります。落ち着かなさがあります。おるべき所に戻ったとき、「帰ってきた。ここが自分のいるべき場所だ」と、心に安息が回復します。本来の自分自身の姿に帰ることができます。

1.迷える羊
「あなたがたは羊のようにさまよっていました」(25節)。聖書には、人間の現実の姿を「迷える羊」として描いている所が幾つかあります(イザヤ53章6節他)。おるべき所から彷徨い出て、帰るべき場所、その道も分からなくなった存在として描かれています。

2.戻るべき所
私たちが戻るべき所はどこでしょうか。それは、単なる場所ではなく、人格ある神、創造者にして私たちの人生を正しい祝福の道へと導いてくださるお方。「魂の牧者であり、監督者である方」こそ、私たちが戻るべき所です(25節)。このお方は、私たちがご自身のもとへと戻って来るのを待ち続けておられます。

3.戻るための道
戻るための方法、その道筋はどこにあるのでしょうか。「十字架」「そのお受けになった傷によって」(24節)とあります。この個所は、苦難を耐え忍ぶことについて教える個所です。キリストは私たちに模範を示されました。その生涯は罪なき生涯。ののしられてもののしり返さず、神様に自らをお任せになっておられました。しかし、その苦難は何のためだったでしょうか。私たちのためでした!その十字架は、「自らその身にわたしたちの罪を担ってくださ」ったもの。「わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるため」。「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(24節)。ここに、私たちが戻るべき所へと帰って行くための道があります。

祝福の本当の源泉(2013.10.20)

宣教題  : 「祝福の本当の源泉」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : ホセア書2章4~25節
「放蕩息子のたとえ」(ルカ15章)に登場するのは、父から離れていって身を持ち崩した息子であった。ホセア書には「放蕩夫人」が登場する。イスラエルが、他の神々という愛人たちを恋い慕ったからである。

1.衣食住の祝福の源泉
紀元前8世紀のイスラエルではバアル崇拝が広がっていた。衣食住の必要は嵐と雨をもたらす肥沃の神バアルが備えると信じていたからである(7)。しかし、祝福を与えてくれるバアルを探し求めても、見つけ出すことはできない(9)。衣食住の祝福の源泉は、バアルではなくイスラエルの神である主だからだ(10)。主が祝福を惜しみなく与えられたからこそ、放蕩夫人は放蕩に身を持ち崩すことができた。しかし、彼女は知らなかった。

2.神を知る祝福の源泉
イスラエルは主を忘れ(15)、愛人バアルを求めた。しかし、彼らは主を知るようになる(22)。主がそのために働かれる。彼らがバアルの所へ行く道をふさぎ(8)、その衣食住を奪い取り(5、11)、世界にその恥をさらさせ(12)、季節の祭りの楽しみを奪い取り(13)、バアルの贈り物だと誤解していた楽園を荒らす(14)。主は彼らが蒔いた種を刈り取らせる。しかし、荒野へと彼らを導き、そこで懇ろに語り、祝福と苦悩の中の希望を与えるのも主である(16-17)。主に信頼する以外に道がない荒野で出エジプトの神を思い起こした彼らは、主の下に立ち返り(18)、主を知るようになる(22)。神を知る祝福の源泉も主である。

3.世界を治める祝福の源泉
イスラエルが祝福の本当の源泉を知る時、天と地は結び合わされ、天から与えられる祝福を、地は豊かに実らせる(23-24)。彼らがその使命を果たし、地を正しく治め、あらゆる被造物がお互いに呼応しあうからである。このようにして、彼らが地上で主のみこころを行い、その結果、被造物が生かされ、戦いが止められるために、彼らと契約を結ばれるのも主である(20-22)。放蕩夫人が主の下に立ち返り、その使命を果たすためのあらゆる必要は主が備えてくださる。祝福の源泉である方を覚えよう。

良心に従って(2013.10.13)

宣教題  : 「良心に従って」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録22章22節~23章5節
神が私たちに与えていてくださる「良心」は、大切な賜物です。しかし、人が良心的に生きると言いつつも、全てが良い心であるとは言えないようです(マルコ7章20~23節)。だからこそ、パウロのように、「わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前に生きてきました」(23章1節)と言える人は、何と幸いなことでしょうか。

1.新しく造り変えられた良心
聖書では、信仰と良心の関わりの深さと大切さを明らかにしています。そこには、「正しい良心」を持つように勧められていますが(1テモテ1章19節a)、健全な状態にない良心についても語られています。それは、良心が鋭い感覚を失ってしまい、罪を罪と感じなくなってしまったり(同4章2節)、良心を意識的に捨ててしまったりすることです(同1章19節b)。ですから、神の御業や御言葉に対して素直に応答する「正しい良心」をもたせていただくことが大切なのです。
パウロは、教会を迫害することが罪であることを復活の主イエスから知らされた時、聖霊によって良心の導くところに従って回心しました(22章6~11節)。主イエスの語りかけに対して、良心が忠実となり、新しく造り変えられることか大切です。

2.神の前を生きる良心
ここでの迫害に対しては、パウロが持っていたローマの市民権が用いられ、救出されました。彼に与えられた異邦人伝道の使命が果たせなくなってはいけなかったからです(22章22~29節)。彼は、翌日の大祭司アナニアの前で、堂々と落ち着いて、気迫あふれた発言をしています(23章1~5節)。このように、パウロは、神の前に、神に向かって、神から与えられた使命に従って生きていこうとしたのです(24章16節)。
私たちが、その良心を死んだ業から清められて、神を礼拝し、神に仕える者となるために、主イエスが十字架で血を流して永遠の救いを全うしてくださったことを覚え続けたいものです(ヘブライ9章14節)。

真の安息(2013.10.6)

宣教題  : 「真の安息」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ6章1節~11節
私たちは、旧約時代の土曜安息日ではなくて、主イエスが復活された「週の初めの日」(使徒言行録20章7節)とも呼ばれている「主の日(聖日)礼拝」を大切にしています。この日に、真の安息への道を開かれた主イエスの御心を知って、自らの信仰と生活を導いていただくのです。

1.神の恵みを喜ぶ
主なる神は、6日間で全てを創造され完成されたことに満足されて、7日目に安息され祝福されました(創世記2章1~3節)。従って、「安息日」は、造られた人間にとって神と共に安息することが当然の恵みなのです。私たちは、神が全てを良いものに造ってくださったことに、喜びと感謝をささげるのです。
さらに、出エジプトという神の救いの恵みに与かった神の民が、「安息日」の祝福に生きることを命じられています(出エジプト20章2節、8~11節)。私たちは、神の民がエジプトを脱出して約束の地へと導かれたように、主イエスの十字架と復活によって罪と汚れに満ちたこの世から脱出して、約束に御国へと導き入れられることを大いに喜ぶのです。

2.神の恵みを分かち合う
主イエスは、安息日に弟子たちの飢えを満たして生かし(1~5節)、また生活の糧を得るのに必要な右手が萎えている人をいやして生かされました(6~11節)。
安息日は、神とその恵みを忘れないことと、人々へのあわれみを忘れないことのためにあります。すなわち、安息日に神の救いの約束が変わらないことを思い起こし、永遠の救いの神を忘れないことです(出エジプト31章16節)。また、一人一人が神に分け隔てなく招かれていることを忘れないことです(申命記5章14節)。
私たちは、礼拝において深い安息を経験するのですが、それを自分だけのもので終わらせることなく、隣人のためにも与えられていることを覚えて、お互いの喜びとさせていただきましょう。