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2013年9月

それでも主は見捨てない(2013.9.29)

宣教題  : 「それでも主は見捨てない」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : ホセア書1章1節~2章3節
必ず裏切ると分かっている人と結婚することができるだろうか。紀元前8世紀、繁栄に沸く北王国イスラエルに住むホセアに、主は「淫行の女をめとれ」(1:2)と命じた。妻から生まれる子どもたちを自分の子として受け入れるようにも命じている。それを実際に行ったホセアは、なんと愚かだろうか。どれほどの痛みを経験しただろうか。ホセアの愚かさと痛みは、イスラエルの神でありつづける主の愚かさと痛みである。イスラエルは、古代から幾度となく血が流されてきたイズレエルの地で、また流血を繰り返している(4)。主を捨て、武器や偶像を頼っている(2、5)。契約によって「淫行の民をめとっている」のは他でもない、イスラエルの神である主だ。

1.だから、主は責任を問われる
ホセアは、結婚という契約のゆえに、自分を裏切った妻にその責任を問える。主も、自分を裏切ったイスラエルの責任を問う。だから、一人目の子、イズレエルの名にちなみ、流血の罰をイスラエルに下す(4)。二人目の子、ロ・ルハマの名にちなみ、イスラエルにあわれみをかけることはせず、その罰をゆるさない(6)。三人目の子、ロ・アンミの名にちなみ、イスラエルはもはや主の民ではなくなり、主はイスラエルの神ではなくなる(9)。自分たちを生み出した主との関わりが切れ、イスラエルはすべてを失う。イスラエルの王家はその支配を終える(4)。すべてが止まる。

2.それでも、主は見捨てない
これほどひどいイスラエルなのに、それでも、主は見捨てない。すべてが止まったのは回復のためである。その後、イズレエルが栄光の日となり、イスラエルが主の民となり、その上に憐れみが注がれる(2:2-3)。それは、アブラハムとの契約のゆえ(創世記22:17)ダビデとの契約のゆえである(2サムエル7:16)。
ホセアとよく似た名前のイエスも、「淫行の女」、取税人、罪人、娼婦の所へ行かれた。そして、その出会いを通して、彼らは「アブラハムの子」(ルカ19:9)へと回復された。主は見捨てない。だから、裏切り者にも希望がある。

キリストは何をなされたか(2013.9.22)

宣教題  : 「キリストは何をなされたか」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ヨハネ11章25~27節
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」との主イエスの御約束を信じて生きる人には、過去も現在も将来も開かれた人生となります。そのために、主イエスは、どのようなお方であり、何を語られ、何をなされたのでしょうか。

1.明るい将来を開かれた
マルタとマリアは、主イエスがいてくださりさえすれば、兄弟のラザロは死ななかったのにとの思いを抱いていました(21、32節)。死の厳しさ、虚しさ、悲しみを味わっていたのです。主イエスは、彼女たちの悲しみを受け止めて涙を流され(35節)、ラザロを墓からよみがえらされたのです(43~44節)。
マルタとマリアと兄弟ラザロは、私たちの代表です。同じように、私たちは、十字架に死んで復活された主イエスによって、肉体の死を越えて生きる者となるように招かれています。それだけではなく、主イエスは、死の不安におののき、本来の人間らしさを失った者に復活の命を与えて生かし、新しくされた人生を歩ませてくださいます。私たちには、主イエスと切り離されないで生きて死ぬという明るい将来が開かれているのです。

2.明るい過去に変えられた
私たちに明るい将来が開かれるためには、明るい過去に変えられる必要があります。私たちの数々の罪は、神の目から隠れてはいません。その神の前に素直な心になって、罪の赦しを求めるならば、主イエスの十字架の血によって罪のない者としてくださるのです。
このようにして、暗い過去が明るい過去に変えられ、明るい将来へと希望がつながるのです。私たちの希望の根拠は、十字架に死んで復活された主イエスにあるのです。
「信じる」とは、思い込むことでも、理性を殺すことでもありません。「わたしを信じる者」とあるように、私たちは、主イエスを自分の永遠の救い主として受け入れ、このお方によって尽きることのない復活の命を与えられているということを信じ、信じたとおりに生き、その結果を体験するように招かれているのです。

遣わされる人(2013.9.15)

宣教題  : 「遣わされる人」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録22章6~21節
使徒言行録には、パウロの回心の経験が3回記されています。これは、パウロが自分を誇っているのではなくて、福音の出来事に巻き込まれている自分を実例として語らざるをえなかった恵みなのです。そこには、遣わされて生きる者の生き方が証しされています。

1.恵みによって変えられる 6~11節
パウロの回心の経験は、彼がキリスト者を迫害していた時に、神によってもたらされた突然の出来事でした(6節)。パウロは、復活の主が彼と問答されたことを通して、主が教会とご自身とを同一視しておられることを知りました(7~8節)。そして、パウロは、自分がこれから何をしたらよいのか、今までの自分の生き方が間違いではなかったのかと自問自答するようになったのです(10節)。
それに対して、主は、パウロがどこへ行って、何をすべきかを明らかにされました。そのために、彼の目を見えなくさせることによって、彼を弱い者とされたのです(11節)。
私たちの信仰体験は、個々に異なりますが、復活の主の恵みによって変えられるという共通の経験をさせていただけるのです。

2.恵みのもとで命じられる  12~21節
アナニアを通してパウロの目を見えるようにされた主は、彼に主の御心を悟らせ、主と会わせ、主の御言葉を聴かせることにより、復活の主の証人とされました(14~16節)。
続いて、エルサレムに帰って来たパウロは、主との交わりを通して主の導きを仰ぎました。その導きは、これまでのようにエルサレムに行くということではなくて、エルサレムから急いで出て行き、行って異邦人のために遣わされるということでした(17~21節)。彼が、この二つの板挟みから解放されるただ一つの道は、主の命令に従うことでした。それによって、彼はさらなる世界宣教へと遣わされていくこととなったのです。

私たちは、「急げ」「出て行け」「行け」と主が命じられることに従うときに、御言葉の深い意味と主の御計画が開かれていくのです。

恵みが輝く幸い(2013.9.8)

題   : 「恵みが輝く幸い」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖書  : 詩編90編1~17節
モーセは、朝目覚めたときに、まず主の「慈しみに満ち足らせ」てくださいと祈っています。さらに、自分の人生に一日が加えられたことを感謝し、困難に遭っても主の最善がなされることを信じて、「生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください」と願い求めています(14節)。それは、何をわきまえ、どんな幸いを告白する生涯なのでしょうか。

1.人間の限界を正しくわきまえる
この詩編には、人間の力の限界(3節)、人間の繁栄の限界(5~6節)、人間の秘密の限界(7~8節)、人間の齢の限界(9~10節)、人間と知恵の限界(12節)と語られています。そのほか私たちには、様々な限界をもっています。それらの限界をどう自覚し、どう考え、それらにどう対処していくかということが、その人の生き方を決定します。
ある人々は、そうした限界を無視した生き方をします。それは、個人だけでなく、社会の世相にも表れています。また、そうした限界に挑戦した生き方があります。それは、今日まで、さまざまな分野において発展をもたらしてきました。しかし、限界に挑戦することが、人間万能という錯覚と高慢にもつながってきました。

2.主に信頼して生きる幸いを告白する
モーセは、若い時には限界を無視し、限界に挑戦する生き方をしました。その彼が、自分の限界を知らされた上で、主に信頼して生きる幸いを告白しています(1~2節)。彼は、自分の生きることのできる日数が主に知られているという信頼をもって、主に祈りをささげています(12節a)。このように、人間のあらゆる限界を主は知っておられるということが、私たちを謙虚な信仰へと導くのです。そうした限界を知ればこそ、自分がどう生きればよいのか、その知恵を求め、また自分がなすべきことを確実に果たしていく力を求める姿勢が生まれるのです(12節b、17節b)。
こうした限界を越えさせるものは、実にイエス・キリストです。そこには、輝ける将来があるのです。

喜びを抱いて(2013.9.1)

宣教題  : 「喜びを抱いて」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 詩編100編1~5節
私たちの信仰の歩み、また教会の歩みを振り返る時に、いつも「主の恵み」がありました(1コリント15章10節)。そして、それに応答する信仰がありました。
「詩編100編」は、主の恵みが溢れているところには、尽きない喜びが溢れていることを語っています。

1.主の恵みの豊さゆえに
この詩編は、「あげよ」「仕え」「進み出よ」「知れ」「入れ」「たたえよ」と命令していますが、そこには緊迫感や圧迫感は感じられません。それには理由があります。主こそ私たちの創造主であり、私たちは主のものとされた主の民であり、主に養われる羊の群れであることを知っているからです(3節)。また、私たちは、主の恵み深さと、変わることのない慈しみと、真実の確かさを知っているからです(5節)。
そこからは、主に感謝をささげる礼拝生活が生まれてきます(4節)。何よりも、神が成し遂げられ、備えていてくださることの一つ一つに感謝することです。とりわけ、主イエスの十字架と復活のゆえに、神のものとされたことへの揺るぎない事実が、感謝の源泉です。このように感謝できることは、力強い人生です(1テサロニケ5章16~18節)。

2.主の恵みに徹するゆえに
主の恵みに対して、「喜び祝い、主に仕え」(2節)とは、当然の信仰の応答です。ただ、環境や条件が整ってから、主を礼拝し、主に仕えるというのではありません。
ダビデの生涯に、徹底した罪の赦しと聖別がありました(サムエル下11章~12章)。その時ダビテは、「御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって(喜んで仕える霊が)支えてください」(詩編51編14節)と祈っています。このように罪だけが、救いの喜びを奪ってしまいます。
私たちは、「打ち砕かれ悔いる心」(同19節)でもって、贖い主を崇めていないと、復活の主を全ての中心に置いて、臨在の主に主権をお渡ししていないと、喜んで仕えることができないのです。
主の御前の喜びは全地にふさわしく、神の民にふさわしいのです(ローマ12章11節)。