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2013年6月16日

もう一つの命(2013.6.16)

宣教題  : 「もう一つの命」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖書  : ヨハネ10章10~11節
聖書が明らかにしている「命」には、二つの異なった言葉が用いられています。一つは、肉体上の自然的な命で、この地上の一時的な命を意味するものです。もう一つは、肉体を超えた本質的な命、永遠の命を表わすものです。後者こそが、私たちが与かる必要のある「もう一つの命」です。

1.溢れる命を 10節
主イエスが来臨されたのには、目的がありました。羊のように無力で弱い私たちが、もう一つの命を受け、しかも豊かに受けるためでした。
豊かな命は、溢れる命です。溢れる命からは、喜びが満ち溢れ(1ヨハネ1章4節)、主への感謝が満ち溢れ(2コリント4章15節)、主の慰めが満ち溢れ(2コリント1章5節)、主の愛から引き離すものからの勝利に満ち溢れ(ローマ8章37節)、主の業に満ち溢れるのです(1コリント15章58節)。
私たちが受ける溢れる命は、他者を生かしつつ、周囲を祝福します。そして、地上の終わりの向こう側に向けての備えをしつつ、人生の終わりを迎えるのです。

2.命はキリストに 11節
このような約束の御言葉を語られた主イエスが、本当に命なるお方なのでしょうか。
主イエスは、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と自らを明らかにしておられます。主イエスは、何の罪も犯しておられないお方なのに、私たち一人一人の罪を背負い、十字架に架かられて死なれました。同じように十字架に架けられた犯罪人の一人は、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」(ルカ23章41節)と言っていますが、その当然の座が、罪の赦しと永遠の命に与かる恵みの座となったのです。
十字架の死から復活された主イエスは、今も変わらずに永遠の命を与え続けていてくださいます。命のキリストに信頼して歩み出し、また歩み続けましょう。

神はわたしたちの味方(2013.6.16)

宣教題  : 「神はわたしたちの味方」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録21章7~16節 ローマ8章31節b
もともと神と敵対していた私たちを、神は惜しみなく愛し、イエス・キリストの十字架の死を通して和解の道を開いてくださいました(ローマ5章10節)。それゆえに、神が私たちの味方となっていてくださるのです。神が私たちの側に立っていてくださることの実例を、本日の使徒言行録の箇所に見ることができます。

1.厳かな使命に立つ中に
ここに見るパウロは、死を覚悟して使命に生きる強い姿勢があります(13節)。
パウロは、異邦人教会からエルサレム教会に感謝の献金を届けるとともに、両教会の信仰の一致が見られることを祈り願って、エルサレムに向かったのでした。パウロは、ルカたちと共に、ティルスからプトレマイス、さらにカイサリアと航海を続けました。カイサリアのフィリボの家で泊まっていた彼らの所に、あのアガポが訪れ(11章27~28節)、エルサレムでパウロが苦難を受けることを予告しました。それを聞いたルカたちは、しきりにパウロのエルサレム行きを反対したのです。
それに対してパウロは、動揺しながらも、祈り、確信し、覚悟した信仰を貫きました。その根底には、神は私たちの側に立っていてくださるとの信仰があったからです。

2.豊かな愛の交わりの中に
教会は、使命に立って進む厳かな部分と、愛の共同体としての豊かな交わりに生きる部分の両輪があり、それをしっかりと持ってこそ健全な歩みが展開されます。
パウロ一行は、プトレマイスで兄弟たちと(7節)、カイサリアのフィリボの家の者たちと(8節)、互いの交わりを深めています(ヘブライ13章1節参照)。さらに、カイサリアの弟子たちと一緒にエルサレムへ行く途中、ムナソンの家に泊まっています。そこでは、くつろぎ、やすらぎの時を過ごしたことでしょう。死という危機を分かち合う覚悟を持った彼らには、驚きとともに慰められます。このような愛に満ちた交わりを通して、神は私たちの側に立っていてくださるという恵みを体験させていただけるのです。