宣教題 : 「新しい生き方を求めて」 宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖 書 : ヨハネ12章20~26節
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(24節)とは、主イエスが十字架に架かられる前に、受難週の中で語られた御言葉です。この御言葉が、私たちの生き方にどういう意味をもっているかに注目したいと思います。
1.一粒の麦となられたキリスト
主イエスは、受難週の最初の日に、エルサレムに入城されました。その時、過越の祭りの礼拝を献げるために集まっていた人々の中に、「何人かのギリシア人」がいました。彼らは、主イエスがなされていた御業の中に救いを見ていましたので(17~18節)、主イエスの弟子たちを仲立ちとして、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」(21節)と、興味深い願い事をしました。
それに対して主イエスは、十字架に架かって死なれて「一粒の麦」となる時が、御自身が神として最も著しい栄光を現わす時であると証言されたのです(23~24節)。この救いの御業を通して、多くの人たちが神の救いに与かるという多くの実を結ばれたのです。私たち一人ひとりも、その実の一人に加えられているのです。
2.一粒の麦となる私たち
最初に掲げた御言葉は、主イエスの御生涯の在り方を示しているだけでなく、主イエスの救いを受け入れ、この方の弟子となったクリスチャンの生涯の在り方でもあるのです。
私たちが一粒の麦となるとは、自分だけを愛して自己中心的生き方をするのではなくて、主イエスを愛し、神中心の生き方をすることであり、そこに永遠の命に至る歩みがあるのです(25節)。それこそが、主イエスに仕え、主イエスに従うことであり、結果として主イエスのおられるところに共にいる者になるのです。主イエスは、そのような人を大切にされます(26節)。
私たちは、「一粒の麦」となることによって他者の救いのために生きる者とされて、主のために実を結ぶことを喜びとしたいものです。