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2013年1月13日

主の愛のわざを覚えて(2013.1.13)

宣教題  : 「主の愛のわざを覚えて」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : アモス書 2章6~16節
言者を通して語られる神はうっとうしいほどに熱い神である。紀元前八世紀、繁栄する北王国イスラエルで預言者として生きたアモスは、獅子の雄叫びのような主の声を多くの国々に向かって語った(1章2節~2章16節)。

1.主は熱い神:愛ゆえの「熱さ」
主はご自身の民の現状を知っている。不正が蔓延し、人と人との関係がひずんでいる状況を見聞きしたそれゆえに主は痛み、その現実を告発する(2章6~8節)。それは主が民とその歴史に深く関わっておられるからだ。出エジプト、荒野の放浪、約束の地の征服のすべてを実現させたのはこの神である(2章9~10節)。そして、アモスら預言者を送り、主の声を聞かせ、ナジル人を送り、主の聖なることを示しておられる(2章11節)。主はこれほど熱い、愛のわざをされたのは、イスラエルの父祖であるアブラハムと契約を結ばれたからだ。しかし、イスラエルは神の声を聞こうとはせず、主の聖なることを見ようとはしない(2章12節)。熱い神の愛のわざを拒否している。だから、主は預言者を通してほえたける。アモリ人に対してそうであったように大勇士としてイスラエルに攻撃を加えると言われる(2章13~16節)。その愛ゆえに思い切った行動を取られる。

2.主の熱さは悔い改めと使命のため
さばきの預言は、罪に対する神の憎しみの現れではない。民を切り捨てる神のあきらめのよさでもない。ヨナのことばがニネベの民を立ち返らせたように(ヨナ3章)、イスラエルが熱い神の雄叫びを聞き、自分の姿に気がつき、悔い改めることを願う主の愛の現れである。愛ゆえの熱いさばきである。さらに、民が主の名を聖なるものとする(アモス2章7節)という、アブラハムに与えられた使命をイスラエルが諸国民の間で果たすことができるように導くためにもこの預言は語られている。
預言のことばそのものが、熱い神の愛のわざである。それは甘ったるくなく、厳しい。しかし、教会がその使命を果たすものとなるようにと整えることばである。