宣教題 : 「神の御手によって」 宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖 書 : 申命記34章1~8節
モ-セの死は突然やってきました。彼の使命は、イスラエルの民の先頭に立って40年間荒れ野を旅し、約束の地カナンに民を導き入れることでした。ただし、モ-セ自身は、カナンを目の前にして、ピスガの山頂で天に召されたのでした。そこには、絶えることのない「神の御手」がありました(33章27節)。
1.神の御手にある生死 5節
モ-セは、死は神の命によるものであることを理解し(詩編90編3節)、自らの死も神の命によるものであることを受け止めていました。
私たちは、生きているのではなく、神によって生かされているのです。全ての人の生命は、神の御手の中にあるのです。従って、私たち一人ひとりの生死は、神の御手の中にあるのであり、神の御心に従うものなのです。
2.神の御手に導かれる使命 7節
驚くべきことに、モ-セは120歳になっても目がかすまず、活力も衰えていませんでした。そんな彼の死は、老衰などによるものではなく、使命が終わったからでした。
私たちには、それぞれの使命があります。それには、生かされているという使命と果たすべき使命があります。私たちが、その使命に真実かつ忠実であるならば、人々はそれを通して幸いを受けていきますし、その結果神が崇められるのです。一人ひとりの使命が終わったとき、それがその人の死なのです。
3.神の御手による御国への出発 6節
「今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない」とあります。これは、モ-セの死が彼のすべての終わりではなかったことを証ししています。彼は、神の御手によって、地上の生活から御国の生活に移されたのです。
私たちは、死によって地上の生活を終え、肉体は朽ちますが、その霊魂は永遠に生きる者とされているのです。主イエスの十字架による贖いと復活を信じ、罪から救われて永遠の命を与えられた者は、肉体の死は迎えますが、主の再臨の時に復活の体に化せられるのです(フィリピ3章20~21節)。それは、神の御手による御国への葬送です。