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2012年5月

原点に帰る(2012.5.27)

宣教題  : 「原点に帰る」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  18章5節~11節

主なる神は、私たちの信仰生活や教会の歩みが危機的な状況に遭遇する時、その信仰の原点に立ち帰る機会を与えてくださいます。教会の原点は、使徒言行録に証言されている「聖霊降臨」の出来事です。聖霊が臨まれる時になされる主の御業は、いつ如何なる時も変わりません。聖霊が臨まれる時、確かになるものがあります。

1.主の臨在が確かになる
ペンテコステの日に聖霊が臨まれると、ペトロは主イエスの十字架と復活を語り、主の臨在を証言しました(使徒言行録2章25節以下)。聖霊が臨まれると直ちに起こることは、主の臨在という現実です。
パウロが、コリントで伝道に専念した時に、救いに与かる人が加えられるに比例して、反抗や迫害が激しくなっていきました。そのことは、コリント教会の将来に対して彼の心に不安と恐れを抱かせることとなりました(5~8節)。そのような時、主は「わたしがあなたと共にいる」(10節)との決定的な励ましを語られたのです。
私たちが、恐れや行き詰まりや失望の中にあっても、主の臨在の現実のただ中にあるならば、その歩みは確かなのです。

2.主の宣教の使命が確かになる
聖霊降臨によってもたらされた宣教への導きは(使徒言行録1章8節)、福音が拒まれる中にあっても、今日まで前進してきました。主が「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。・・・この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(9~10節)と語られたことは、パウロにとって大きな励ましと約束となりました。
聖書には、主の証人たちの立派で勇敢な姿が描かれています。それは、彼らが様々な挫折を経験する中から、復活の主に出会い、ペンテコステの聖霊の満たしをいただいたからでした。挫折から始まることが、聖霊の満たしと導きをいただくことにより、力ある主の証人とされるのです。
聖霊が臨まれてなされる原点に繰り返し帰りつつ、聖霊の導きを誠実に積み重ねることが求められているのです。

イエスを待ち望む(2012.5.20)

宣教題  : 「イエスを待ち望む」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : テサロニケの信徒への手紙一  1章9節~10節

神がイエスを死人の中から復活させたという福音を受け入れたキリスト者は、この御子イエスが天から来られるのを待ち望む者となります(1:10)。「天から降って来る」(4:16)の天は、「空のずっと上」を指しているわけではありません。「いま、イエスが王として世界を治めておられる所」です。そして、神が定められた時に、イエスはそこから地に来られます(2:19) 。

1.死に対する勝利の希望
その時、「来るべき怒りから」キリスト者は救われます(1:10)。しかし、これは永遠の裁きと滅びから免れることだけを指しているのではありません。神がイエスになされたことが、私たちの上になされることをも意味します。つまり、イエス同様に復活のからだが与えられて、人類最大の敵である死に対する勝利が地において現実となるのです。だからこそ、「イエスを信じて眠りについた人たち」(4:14)の復活が主イエスの来臨の時に起こります。からだのよみがえりこそが、私たちの兜である「救いの希望」(5:8)です。

2.希望に立って待ち望む
この希望に立って、私たちは御子が天から来られるのを待ち望みます(1:10)。この希望のゆえに、「無事だ、安全だ」ということばに惑わされず(5:3)、ひたすら目をさまして、身を慎みます(5:6)。「目をさました歩み」とは、倫理的な生活だけでなく、弱い者を助け、善を行い、喜び、祈り、感謝する生活をも指しています(5:14~18)。つまり、より多くの者が目をさましていることができるように、励まし合い、互いの向上に心がけることへキリスト者は招かれています(5:10~11)。
救いの希望に立って歩む時、「非のうちどころのない者」(3:13、5:23)となる道をキリスト者は進んで行きます。この目標に人間の力だけで到達することはできません。しかし、平和の神、真実な方がこれを可能として下さいます(5:24)。恵みからはじまり、恵みによって完成へと導かれるキリスト者生涯を共に進みましょう。

母の心(2012.5.13)

宣教題  : 「母の心」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : サムエル記上 1章3節~20節

旧約聖書最初の預言者と言われているサムエルの母ハンナは、苦しむことの持って行き場がないと思われた時に、神のもとで祈った人でした(ヤコブ5章13節)。ここでは、ハンナの心の軌跡を見ることができますが、それは私たちにも当てはまるものです。

1.痛む心  10節
シロで礼拝がささげられていた時に、ハンナは夫エルカナの愛情を覚えつつも、ベニナによって苦しめられて、悩み嘆き、痛み泣いていました(10節、11節、15節、16節)。
人が嘆く心(詩編13編3節)、悩む心(同25編17節)、騒ぐ心(ヨハネ14章1節)、気力を失い疲れ果てる心(ヘブライ12章3節)、乱れる心(1ペトロ4章7節:口語訳聖書)は、その心を不安にし、揺れ動かし、自分でもあつかいかねてしまうような状態にさせます。そのような心は、主に導いていただく必要があるのです(2テサロニケ3章5節)。

2.祈る心  15節
ハンナの幸いは、主に祈ることを知っていたことでした。それは、痛む心を主の御前にあるがまま申し上げ、さらけ出すように心を注ぎ出す祈りでした。決して、整った言葉や、堂々とした祈りではありませんでした。
私たちは、どのような時にも、ご自分の命を死に渡され、与え尽くしてくださった主イエス・キリストに対して、自分自身の心をそのまま注ぎ出すことです。そこが、私たちの避けどころなのです(詩編62編9節)。

3.安らぐ心  18節
祈り終えたハンナの姿は、以前のように暗く沈んだものではなく、明るく安らいだ表情になっていました。彼女は、主の御前に心を注ぎ出し、その祈りの結果を委ね、ささげています(11節、28節)。
私たちは、感謝を込めて祈りと願いをささげ、結果を主に委ねていくならば、人知を超える神の平安の中に生きる者とされるのです(フィリピ4章6~7節)。
痛む心→祈る心→安らぐ心の軌跡は、私たちの心の軌跡なのです。

喜びを見る(2012.5.6)

宣教題  : 「喜びを見る」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書 2章8節~20節

羊飼いたちが救い主との出会いの経験をすることができたのは、神の方から近づいてきてくださり、導いてくださったからでした。それに対して羊飼いたちは、「その出来事を見ようではないか」と応答し、それを聞いた人々やマリアも同じように導かれています。私たちは、今も同じ「喜びの出来事を見る」経験させていただけるのです。

1.熱心をもって  15~17節、20節
羊飼いたちをめぐり照らした光は、彼らを打ち倒すものではなく、彼らのありのままの貧しさにおいて包む光でした(9節)。それは救い主イエス・キリストの光でした。
それに対して羊飼いたちは、この喜びの知らせの出来事を見るために、即座に赴き、救い主を探し当てました。ここに彼らの熱心さがあります。彼らは、それだけで安堵することなく、周囲の人々に精一杯言い広めたのです。遂には、神を崇め、かつ讃えています。ここにも、彼らの素朴な喜びから生じた、誠実さ、熱心さが溢れています。
「さあ、ベツレヘムへ行こう」とは、私たちへの勧めでもあります。私たちのベツレヘムは、主イエス・キリストがおられる所、神がこのお方を通して世と接しておられる所である主の教会です。私たちはここで、主と出会い、主を礼拝し、主の御言葉を聴き、主に遣わされ、主を宣べ伝えるのです。このことに熱心でありたいものです。

2.感動をもって  18~19節
「主が知らせてくださったその出来事」とは、実際に出来事として起こったことであり、またその言葉です(15節、17節、19節)。そのことを聞かされた人々は皆、不思議に思うほどに驚き、感動して受け入れました。一方マリアは、語られたことと自分の内に起こっていることとを繋ぎ合せ、その出来事を黙して集中して考え、静かな感動をもって受け止めました。
この出来事は、主イエス・キリストの十字架と復活に現わされた救いの出来事に繋がります(使徒言行録10章36~37節)。私たちが、その出来事を信仰によって自分自身に当てはめていくならば、驚きと感動が溢れるのです。真の喜びは、神の語りかけを聴く中から、苦しみも喜びに変えられることによって生まれてくるのです。