宣教題 : 「御言葉の力」 宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖 書 : 使徒言行録 17章10節~15節
パウロたちの福音宣教は、テサロニケにおいても、ベレアにおいても迫害に遭いましたが、その度ごとに次の素晴らしい場所に導かれていきました。このように、苦しみに遭い、卑しめられ、貧しくなることは良いなのです(詩編119編71節)。そのとき、福音を語る者も聴く者もともに、御言葉の力を経験するのです。
1.日々の平時において 10~12節
パウロとシラスは、テサロニケにおけると同様に、ベレアでも福音を語りました。ここでのユダヤ人たちは、語られる御言葉に対して、素直に開かれた心で、熱心かつ真剣に聴きました。そして、「そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた」ほどに探究心がありました。このようにベレアでは、テサロニケ以上に福音に対して良い反応があったので、多くのユダヤ人と異邦人が信仰に導かれたのでした。
こうした姿勢は、御言葉に対して鋭敏な感覚を養い、御言葉に照らして何が正しいかが判断でき、聖書の真理に生きる信仰者が生み出していきます。そのために、説教者と聴衆に求められることは、日々に御言葉に聴き、黙想することです。また、御言葉を力を尽くして究めていくことです。
2.危機に際して 13~15節
しかし、テサロニケのユダヤ人たちは、ベレアにおいてもパウロたちの福音宣教活動を妨害しまた。これに対してベレアの信徒の対応は、実に素早くパウロをアテネに逃れさせました。ただ、シラスとテモテはベレアに残って、誕生したばかりの信徒の信仰の訓育をしたのでした。このようにベレアの信徒は、危機意識をもって臨んだシラスとテモテによる信仰の導きを、素直に、熱心に、聖書に問い続けたのでした。その結実として、後日ベレア教会から指導者が生まれています(20章4節)。
「素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ」るとは、主イエスとその御言葉の前にひれ伏す姿勢でもあります。それは、ベタニアのマリアに見られる信仰の姿勢でした(ルカ10章39節、ヨハネ11章32節、同12章3節)。
危機における御言葉に対する姿勢は、平時の御言葉に対する姿勢の応用なのです。