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2012年1月

神にあがなわれた民(2012.1.29)

宣教題  : 「神にあがなわれた民」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : 出エジプト 6章2節~9節、コロサイ1章13~14節

エジプトで奴隷として重労働の下に置かれていたイスラエルの民がどれほど努力しても、自分たちを王パロの支配の下から救い出すことはできませんでした。しかし、主が彼らを救い出したことによって(6章6節)、彼らは主の民となりました(6章7節)。この主の働きを「贖(あがな)い」と呼んでいます。

1.イスラエルをあがなわれた主
旧約聖書においては、大家族のひとりが、他のメンバーの利益のために犠牲を払ってする行動を「贖い」と呼びます。家族の借金を支払いきったり(レビ25章)、兄弟の名前を残したりする行為です(ルツ記)。つまり、主は、イスラエルの父祖との契約によって彼らの「父・神」となられたからこそ、犠牲を払ってまでもエジプトの手からイスラエルを救われたのです(出エジプト6章4~5節)。
さらに、強制労働を課し、子どもを殺し、主を礼拝することをゆるさないエジプトに勝たれた主は、罪の力からイスラエルを解放しました(6章6節)。主の勝利は、イスラエル自身の罪に対してではなく、エジプトの罪に対するものです。そして、「あながわれた」イスラエルは、王である主の支配下に置かれました。

2.御子によるあがない
御子キリストの十字架によって神はあがないをなして下さいました(コロサイ1章14節)。ですから、十字架は、父である神がわたしたちのために払われた大きな犠牲です。さらに、闇の力である罪に勝利されることによって、その奴隷であったわたしたちをあらゆる点において解放し、御子の支配下へと移して下さいました(1章13節)。このようにして出エジプトをモデルとする、十字架による勝利のわざ、あがないを喜んで受け入れた私たちは、今度は主にならうべきです。闇の力の支配下にある人を解放する主のわざの一翼を担わせていただきましょう。

祝福としての沈黙(2012.1.22)

宣教題  : 「祝福としての沈黙」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書  1章5節~25節

バプテスマのヨハネの誕生は、喜びの知らせでした(14節、19節)。後に彼が、主イエスに先立って罪の悔い改めを迫り、人々を主の救いに巻き込んでいったからです(15~17節)。神は、ザカリアがこのことを受け入れられるようになるために、口が利けなくさせられました(20節)。この沈黙は祝福となりました。

1.神の御言葉を聴く祝福
ザカリアは、老夫婦に子どもが与えられるという思いがけない知らせを受けましたが、その事実を受け入れることができない不信仰に陥りました(18節)。すると、ザカリアは、ものが言えなくなり、ヨハネが生まれるまで約10カ月の間、何が起こったかを誰にも語ることができなくなったのです(19~22節)。ところが、口が開かれるや神を讃えています(64節、68節)。彼にとっては、その一生にまたとない、沈黙の時だったのです(詩編62編1節)。
主イエスは、いかなる時も静かに父なる神の御心を聴き、それを成し遂げようとされました。とりわけ、十字架のご受難に際しては沈黙されています(1ペトロ2章22~25節)。私たちは、神の御言葉を聴くために沈黙し、神の御言葉を聴きつつ祈ることが大切なのです。

2.神の再創造にあずかる祝福
神は、ザカリアの不信仰を審こうとされたのではありません。この沈黙の間は、神の力が彼ら夫婦に働いています。彼らが事の次第を語ったのではなく、エリサベトが身ごもった事実が事の次第を明らかにしました(23~25節)。このようにして、彼ら夫婦は、神のご計画を受け入れることのできる者に変えられていったのです。
私たちは、信仰を持ちつつ、個々の問題や課題に対して疑いを抱き、信じ抜くことにおいて揺れ動きやすいものです。そうした時、主イエスが私たちの生活と人生の中に入り込んできてくださり、心を神に向けさせ、信仰による再創造の御業を成してくださいます(詩編62編8~9節)。
神は、決して沈黙の時を無駄に用いられるお方ではないのです。

喜びに生きる(2012.1.15)

宣教題  : 「喜びに生きる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書      : 使徒言行録 16章25節~34節、フィリピ4章4節

「喜びを物語る」イエス・キリストの福音は、主イエスと私また私と他者との出会い、関係、結びつきを通して波及していきます。その結果私たちは、主イエスにあって常に喜びに生きる者とされるのです。

1.主への礼拝に生きる
ここに至るまで、占いをしていた女性、彼女によって利益を得ていた人々、役人が登場しましたが、彼らに迷信と商売と政治の混乱した状況が伺えます(16~24節)。続いて登場した看守には、仕事上の失敗によって自縄自縛している様子があります(26~27節)。彼らには、救いを失った人間の共通した姿が見てとれます。福音は、そういう状況の中に伝えられる必要があるのです。しかし、そういう世界に福音を伝えることは、伝道の苦しみを経験することでもありました(23~24節)。
ところでそうした最中、パウロとシラスは真夜中の牢獄の中で、神を賛美し、神に祈るという神への礼拝をささげています(25節)。ここに、教会が教会であり続ける姿があります。イエス・キリストの救いに与かっている私たちは、いかなる時にも礼拝をささげる喜びに生きるのです。

2.主の救いに生きる
パウロとシラスは、看守の求めに対して、彼とその家族に対して神の言葉を語り、全家族が主イエスを信じることを勧めました(29~32節)。看守は、パウロとシラスが深い淵にあって神に賛美して祈り、敵対している者を思いやるという神のなされる御業に触れ、またパウロたちの導きに対して信仰の応答をし、家族も一緒に洗礼を受けたのです(33節)。そして彼は、パウロたちを自分の家に招いて食事を共にして信仰と愛の交わりを持ち、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだのです(34節)。
イエス・キリストの十字架と復活は、私たちの罪を解決し、神との関係を回復します。そこには絶えず「喜び」と「神の平和」があり、「広い心」があります。そして力を合わせ、福音のために戦う喜びがあります(フィリピ4章2~7節)。私たちには、このような主の救いに生きる喜びがあるのです。

喜びを物語る(2012.1.8)

宣教題  : 「喜びを物語る」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書   1章1節~4節

ルカによる福音書は、喜びの福音書と言われるほどに、主を讃え、喜んでいる内容で満ちています。そして、主イエス・キリストがどういう方であったか、何をなさった方であったかを物語り、主の恵みを伝えています。その結果として、人々が喜び物語る中に巻き込まれていくことを語っているのです。

1.「私が」巻き込まれる  1~3節
著者ルカは、異邦人の医者であり(コロサイ4章14節)、パウロと伝道を共にした協力者であり(フィレモン24節)、その殉教の死の時まで共にいました(2テモテ4章11節)。彼は、使徒言行録も書き記すほどにキリストに捉えられていました(使徒言行録1章1~2節)。
そんなルカが、実際主イエスを見聞きした人々の言葉を聴き、語り伝えるために仕える人々の言葉に耳を傾け、書き連ねられた言葉を熟読し、自らも「マルコによる福音書」などを基に詳しく調べて、順序正しく書いて伝えようとしたのです。
ところで、「わたしたちの間に実現した事柄について」と語っていますが、ルカ自らもそこに含まれ、巻き込まれているとの信仰に立っているのです。同じように私たちも、そこに含まれ、巻き込まれているのです。

2.「一人ひとりを」巻き込む  3~4節
ルカは喜びの物語を「テオフィロ」一人に語りかけています。彼が求道者であったか、信仰をもってまもない人であったかは不明ですが、彼に確かな信仰の決心が与えられ、信仰が強くされるようにと願って訴えかけているのです。そこには、主イエスの福音の喜びを味わい知った者の篤い思いがあります。
福音は、本来一人ひとりの魂に向かって注ぎ込むように語られるものですが、結果として、それが全ての人に向かって語り伝えられるのです。ですから、「私に語られているメッセ-ジである」との姿勢が一人ひとりに求められるのです。
私たちは、喜びの物語に巻き込まれる時を大切にして、そこから始まる喜びの出来事を生活の中で語り続け、書き表し続けていきたいものです。

若者も老人も(2012.1.1)

宣教題  : 「若者も老人も」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録   2章16節~21節

約束の聖霊が降られたペンテコステは、キリスト教会の誕生を意味しました。ペトロは、この出来事が旧約のヨエルの預言の成就であると宣言したのです(ヨエル3章1~5節)。ここに、教会は本来どのような性質を持っているかを明らかにしています。

1.「主の名を呼び求める者」の集まり
「主」とは、イエス・キリストご自身であり、「主の名を呼び求める」とは、イエス・キリストを信じ、信頼することです。教会は、全ての者の罪のために十字架に架かり、死から復活されて今も生きておられるイエス・キリストを信じ、そのことによって救われた人々の集まりです。
この信仰を基盤にして共に礼拝し、様々な活動や必要のために集まるのが教会です。
このような教会につながる私たちは、いかなる状況下でも主なる神を呼び求める道が開かれているのです。

2.様々な立場を越えた集まり
聖霊は、新約の時代に生きる「すべての人に」注がれ、男も女も、若者も老人も隔てなく、イエス・キリストとその救いを証しし、宣べ伝えるように導かれています。これは、教会の素晴らしい特質の一つです。
そして教会は、若者も老人も互いに尊びながら、現実をしっかりと見つめて、これからどうなるかを洞察します。その上で、どうすべきかという構想や幻を見させていただく神のビジョンに生きるのです。

3.神の時を待つ集まり
ペンテコステの日にヨエルの預言が成就したのが、約八百年経過してからでした。主の弟子たちに聖霊が臨まれたのは、彼らが待望の祈りを始めてから十日目でした。神の時が成就されるのは、神の御心一つです。
主の名を呼び求める者の集まりである教会は、目先の方法論や姑息な手段に頼るのではなく、困難があっても決していらだたず、各自が神の前に真実に生きるとともに、神の時の来ることを信じて、その時を待つのです。