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2011年11月

平和の王イエス(2011.11.27)

宣教題  : 「平和の王イエス」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ書  11章1節~9節
「地には平和」とクリスマスによく語られるのはイエスが平和の王だからである。

1.平和をもたらす王
大国が支配を広げ、小国は絶望せざるをえない時代。「私たちは切り倒された切り株に過ぎない」とユダの民は思った。しかし、ダビデの父であるエッサイにたとえられる切り株から若芽が伸びるとイザヤは語る。ダビデの子孫の王が誕生する(11:1)。主の霊によってその務めを全うする王には、善悪を判断し、国と民を導く知恵、主を畏れ敬うことに基づく知恵が溢れている(11:2)。正当なさばきと公平と真実をもって国を治める(11:4~5)。主のみこころにかなう統治をする王が誕生する。

2.来るべき平和の希望
弱肉強食の世界に平和の王国が誕生する(11:6~9)。喰う者が喰われるべき者を喰わず、毒をもって相手を傷つけるものがそれを行わず、異なるものが共に住むのにお互いを傷つけない。平和の王が国を治め、その統治によって「水が海を覆っているように大地が主を知る知識で満たされる」(11:9)からだ。世界は根本的に変わる。民も平和の民へと変えられる。

3.平和の希望に支えられて
平和の王イエスは二千年前に生まれた。しかし、平和はいまだに到来しておらず、弱肉強食の世界に私たちは生きている。平和の王国は単なる幻に過ぎないのか。ちがう。「希望の源である神が・・・聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださる」(ローマ15:13)。イエスが平和を実現してくださるという希望に満たされ、主を畏れることを教える聖霊によって生きていく時、神は私たちを通して平和の王国を少しずつ実現していってくださる。イエスの再臨の時に平和の王国は実現する。人と人、国と国、そしてすべての被造物の間の平和がやがて世界に訪れる。だから、希望に生き、聖霊に押し出されて、私たちにできる平和のわざに参与しよう。

グッド・ニュ-ス

もう完全に日本語になってしまっている「ニュ-ス」という言葉は、英語で「NEWS」と書きますが、東西南北の頭文字を集めたものだと言われたりします。ニュ-スは東西南北から集められ、東西南北に伝えられるということでしょうか。

ところで、全ての人の救い主イエス・キリストの誕生のニュ-スは、世界中すべての人々のためのものでした。それは長い間、多くの人が待ちこがれていたニュ-スだったのです。それが、他のどんなニュ-スにもまさってグッド・ニュ-スであることは、今も変わりません。

『今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである』(聖書)。
神戸中央教会 牧師 川原﨑晃

窮地に生きる信仰(2011.11.20)

宣教題  : 「窮地に生きる信仰」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 16章16節~25節
聖書には、信仰をもっているのに試練があることと、そのような試練にあったときにそれを喜びとしている証しが多く記されています。パウロのフィリピ伝道は、順調な出来事ばかりでなく、パウロやシラスの投獄というような窮地に追い込まれたこともありました。しかし、その時にも別な意味での喜びがありました。

1.主イエスに試される喜び
占いの霊に取りつかれた奴隷の女は、精神的にもバランスを欠いた状態で雇い人に利用されていましたが、主イエスの十字架と復活の福音によって、その罪の奴隷の悲惨な生活から解き放たれ、救いにあずかりました(16~18節)。ところが、この女の雇い人たちは、金儲けの望みがなくなってしまったことを知り、ありもしない罪状を作って、パウロとシラスを捕えて訴え、牢に投げ込んだのでした(19~24節)。パウロたちは、この難を避けるために正当な訴えもせずに、甘んじて受け入れました。このことが、続く看主の家族の救いにつながっていくのです。
私たちは、「神を信じているのに、神は約束されているのに、なぜこのような試みを通されるのか」と、信仰の土台を揺さぶられる経験をします。主イエスは、私たちの信仰が本物になるように、敢えて試みを通されるのです。そこには、主イエスに試されることによって得る喜びがあります(ロ-マ5章1~5節)。

2.主イエスを想う喜び
このような窮地の中で、しかも真夜中ごろ、パウロとシラスは神に賛美をして祈っていました。他の囚人たちはそれを聞き入っていました(25節)。普通ならば意気消沈してつぶやき、不満が出てくるものです。
彼らは、主イエスの十字架を想い起こし、罪の罰である死を受けてくださり、罪の奴隷から解放し、復活の命に与からせてくださったことに感謝して、神に賛美し、祈ったのでした。
私たちも窮地に追い込まれた時に、主イエスの十字架と復活の福音を想い起して賛美し、祈ろうではありませんか。必ず主の御業が拝せられることを信じて!

神の教育(2011.11.13)

宣教題  : 「神の教育」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 出エジプト 2章11節~15節、ヘブライ11章24~27節
愛の神が、人間が生きる社会に働かれるとき、必ず贖われた人を神の器として用いられます。そのために、神の最大の関心事は、神の器の教育です。そこでは、神が人をどのように取り扱われるかが中心のテーマとなります。今回は、モ-セの生涯の第一の転機とも言える出来事から学びます。

1.神の民であることを選び続ける
モ-セは、ヘブライ人の母親から、創造者であり歴史を導かれる神を信じる信仰を受け継ぎ、エジプトの王女に引き取られてからは、そこでの最高の教育を受けました(使徒言行録7章22節)。彼が40歳になった時に、同胞のヘブライ人をかえりみる心が起こされ(同7章23節)、エジプト人から同胞を助けました(出エジプト2章11~14節)。
この事件を通して、モ-セはエジプトの富と栄誉よりも、神の民と共に苦しみとあざけりを受けることを選び取ったのです(ヘブライ11章24~26節)。彼は、神から与えられる報いに目を向けつつ、信仰によって神を仰ぎ見つつ耐え忍んだのでした(同11章27節)。
このように、神に選ばれた人生を選んでいくことは、見栄えのする華やかな生活、また楽な人生を追及することではなくて、たとえ試練があっても神が備えてくださったところに踏みとどまることです。それを通して、神からの使命が明らかになるのです。

2.神の民をむなしくする
モ-セが神に用いられるためには、さらなる神の高等教育へと導かれる必要がありました。彼は、ミディアンの地に逃れて、再起の機会を伺っていたことでしょう。しかし、彼の荒野での40年は、自己過信や傲慢や衝動的な性格が聖別され、孤独と失意を通して神の助けを求め、神に信頼して委ねる信仰のレッスンを学ぶ時となったのです。このことを通して、モ-セは自分のうちに、もはや何の信頼も持つことができなくなったのです。
この世の教育は人を偉大にしますが、神の教育は人をむなしくします。神は、神の民をむなしくすることにより、造り上げていかれるのです。

真実な救い(2011.11.6)

宣教題  : 「真実な救い」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書 16章19節~20節
主イエスが弟子たちと共に働かれたので、彼らは確信をもって福音の働きをすることができました。『彼らの語る言葉が真実である』ことが証しされ、人々に真実な救いとして受け入れられていきました。

1.勝利をもたらす救い
私たちが、「いまキリストはどこにおられるか」と問われたならば、「天に上げられ、神の右の座に着かれ」ていますと答えます。それは、遥か遠い所で静観しておられるということではなく、「主は彼らと共に働き」とあるように、弟子たちと共に歩まれた地上の在り方とは違った状態でおられるということです。すなわち、いつでも、どこでも共にいてくださって(マタイ28章20節)、福音の働きを共に進めてくださり、真実な救いへと導いてくださるのです。それは、「主イエス」の勝利の支配が、いつでも、どこにでも及んでいくということです。
私たちは、信仰者としても、教会としても様々な信仰の経験をし、試練を受け、また思わぬ方向へと導かれていくものです。そのような時、「神はこのことを通して何を教えていてくださるのか」と問いつつ、主イエスは私たちを勝利をもって支配しておられるということを本気で信じることが大切です。

2.拡がり続ける救い
主イエスがご自分の弟子たちと共に働かれて、彼らの語る言葉が真実であることを、主の臨在と同行という確かなしるしをもって明らかにされたことは、今も変わらずに続けられていることです。
また、主イエスは、ご自身の弟子たちを通して、「永遠の救いに至る・・・福音を広められた」(結び二)とあるように、今も変わらずに私たちを用いて、救いのご計画を進めておられます。
私たちは、十字架に死んで復活された福音の灯を消してはなりません。今も私たちと共に働かれる主イエスの恵みを無にするわけにはいきません。私たちが語る福音の言葉が真実であることを証ししないわけにはいきません。