メニュー 閉じる

2011年10月16日

新たな出発(2011.10.16)

宣教題  : 「新たな出発」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 16章12節~18節
聖書には、多くの出発(旅立ち)の出来事が記されています。何よりも主イエスご自身が、その弟子たちとともに日々旅に生きたお方でした。そして、今日の私たちの信仰の出発は、復活された生ける主イエスの命令と約束に生きることから始まります。

1.主イエスを仰ぎ見るときから  14節
主イエスと一緒にいた人たちの中には、キリストの復活の事実を聞いても「信じなかった」とあります(11、13、14節)。彼らが信じようとしない原因は、「かたくなな心」にありました。主イエスは、それをお叱りになっています。
このように「信じなかった」者たちは、その後、神のあわれみによって、不信仰な心、かたくなな心を取り去られ、神の救いの恵みにあずかる者と変えられました。それは、彼らが「復活されたイエスを見た人々」と同じように、キリストを仰ぎ見る者となったからです。
信仰とは、現実を見て失望したり、他人を見てうらやんだり、自分を見て惨めになるのではなくて、主イエスを信じて仰ぎ見ることなのです(詩編34編6節)。この仰ぎ見る日々の連続が、仰ぎ見る生涯となるのです。

2.主イエスの弟子になるときから  15~18節
主イエスは、ご自身を仰ぎ見る者たちに、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と命じられました。福音が、神に造られた人々に宣べ伝えられることによって、人々が主の弟子になることができるからです(マタイ28章19節)。主イエスは、ご自身を信じて洗礼を受け、神のものになることを欲しておられるのです。しかも、主イエスは、人々を悪魔的な力から解き放ち、キリストとその御業が語られることによって、不可能と思われることを可能とされるのです。
マルコによる福音書は、イエス・キリストの素晴らしさを証言するとともに、人間の弱さや罪深さをストレ-トに語っています。こうした弱く罪深い者が造り変えられて主イエスの弟子となり、福音を証言していったのです。私たちは、主イエスの弟子とされて、新しい出発をさせていただきましょう。