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2011年10月23日

身代わりとして十字架に架かられたキリスト(2011.10.23)

宣教題  : 「身代わりとして十字架に架かられたキリスト」   宣教:   唐木 照雄 師
聖    書  : マルコ 15章25節~39節

1. 十字架を背負い処刑場に向かうキリスト
主イエス様は、十字架に架かる為にゴルゴタの丘に向かいます。そこは犯罪人が処刑される場所であります。そしてその十字架と言うのは、想像するのに、犬きくて、重たくて荒削りの十字架ではなかったであろうか。恐らくその十字架は主イエス様の肩にぐいぐいと食い込んで来た事と思います。しかも十字架を背負った主イエス様に対して死刑執行人であるローマの兵士は、時間までにその刑を終わらせたいという思いから早く歩けと言わんばかりに急き立ててまいります。

2.想像を絶する苦しみを受けられるキリスト
やがてゴルゴタの丘に着いた主イエス様は、自ら背負って来た十字架上に両手、両足を縛られ、死刑執行人によって有無を言わさずに、あの太い犬釘にも似た釘がガン、ガンと打ち込まれたと言うのであります。この時の肉体的な痛みについては、ある方は『痛みは、時とともに増して行き、裂かれた肉体の痛み、ことに不自然な姿勢の結果、手足は硬直し頭脳、肺、胃におけるはなはだしい充血、血管の膨張、身を焼かれるような渇き、めまい、頭痛、しかもこうしたものが、すべて同時になされる時、しかも意識はまだ失うまでにいたらず、その苦しみは、人間の想像を絶する耐え難い苦しみとなって起こって来る』と語っています。

3.キリストは何故このような苦しみを受けなければならなかったのか
何故キリストはこのような苦しみをしなければならなかったのであろうか、私たちの罪の身代わりとしての苦しみであったと聖書は告げております。いわば十字架とは、捨てられなくても良いお方が捨てられ、捨てられて当然の者、いや、捨てられなければならない者が捨てられることなく救われる為であったと言うのです。今まで父なる神様を喜ばせてばかり来たお方が、父なる神様を少しも喜ばせなかったような者として取り扱われ、今まで、父なる神様を少しも喜ばせなかった者が、全く父なる神様を喜ばせてばかり来た者のように受け入れられる。つまり上なる者が下に、そして下なる者が上に、この交差、クロスこそがイエス・キリストの十字架であったと言うのであります。