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2011年10月

信じること(2011.10.30)

宣教題  : 「信じること」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 1章12節~13節、3章16~21節
聖書は、ひたすら神の恵みにより、ただそれを私たちが信じる信仰によってのみ、罪赦され、罪を全く犯したことのない義人と認められると主張しています。「信じる」という語を多く用いている「ヨハネによる福音書」は、それはどういうことで、何をもたらすのかを語っています。

1.受け入れて、未来の先取りを
私たちは、イエス・キリストを「信じる」に際して正しい事実を知ることから始める必要があります。まず、私たちは罪という事実を自分自身のこととして認め、死という事実から目をそむけないことです。そして、イエス・キリストの十字架と復活の事実は、罪と死の唯一の解決の道であることを認めることです。
イエス・キリストは、神の愛を伝える「言」として、愛そのものである神を明確に示されました(3章16節)。私たちは、この方の御人格と御業を「受け入れ」るのです。それは、単なる賛成や同感することではなく、ありのままの自分を任せて安んじてしまうことです(1章12~13節)。そうするなら神は、神に敵対する人生を歩んできた者を「神の子」として受け入れ、神と共に「永遠の命」に生きる者として天国の世嗣としくださるのです。このように、私たちは未来を先取りする者とされているのです。

2.信頼して、生活の改革を
イエス・キリストを信じる者は、罪を拒否する生活改革を行います。私たちは、「真理を行う者は光の方に来る」(3章21節)とあるように、真理の御言葉に照らされることにより、真面目な罪意識を持ってそれを告白するならば、イエス・キリストの十字架の血潮ゆえに、神の無限の赦しの愛を信じて立ちあがることができるのです。
このように、イエス・キリストを信じるとは、このお方の真実に身を委ねて、信頼していくことです。私たちは、罪人から徐々に義人になるのではなくて、きっぱりとした決断をすることにより、そこから神の祝福に生きる歩みが始まるのです。
私たちの生活改革がされる解決の糸口は、私たちの側にあるのではなくて、神の側すなわちイエス・キリストの十字架と復活にあるのです。

身代わりとして十字架に架かられたキリスト(2011.10.23)

宣教題  : 「身代わりとして十字架に架かられたキリスト」   宣教:   唐木 照雄 師
聖    書  : マルコ 15章25節~39節

1. 十字架を背負い処刑場に向かうキリスト
主イエス様は、十字架に架かる為にゴルゴタの丘に向かいます。そこは犯罪人が処刑される場所であります。そしてその十字架と言うのは、想像するのに、犬きくて、重たくて荒削りの十字架ではなかったであろうか。恐らくその十字架は主イエス様の肩にぐいぐいと食い込んで来た事と思います。しかも十字架を背負った主イエス様に対して死刑執行人であるローマの兵士は、時間までにその刑を終わらせたいという思いから早く歩けと言わんばかりに急き立ててまいります。

2.想像を絶する苦しみを受けられるキリスト
やがてゴルゴタの丘に着いた主イエス様は、自ら背負って来た十字架上に両手、両足を縛られ、死刑執行人によって有無を言わさずに、あの太い犬釘にも似た釘がガン、ガンと打ち込まれたと言うのであります。この時の肉体的な痛みについては、ある方は『痛みは、時とともに増して行き、裂かれた肉体の痛み、ことに不自然な姿勢の結果、手足は硬直し頭脳、肺、胃におけるはなはだしい充血、血管の膨張、身を焼かれるような渇き、めまい、頭痛、しかもこうしたものが、すべて同時になされる時、しかも意識はまだ失うまでにいたらず、その苦しみは、人間の想像を絶する耐え難い苦しみとなって起こって来る』と語っています。

3.キリストは何故このような苦しみを受けなければならなかったのか
何故キリストはこのような苦しみをしなければならなかったのであろうか、私たちの罪の身代わりとしての苦しみであったと聖書は告げております。いわば十字架とは、捨てられなくても良いお方が捨てられ、捨てられて当然の者、いや、捨てられなければならない者が捨てられることなく救われる為であったと言うのです。今まで父なる神様を喜ばせてばかり来たお方が、父なる神様を少しも喜ばせなかったような者として取り扱われ、今まで、父なる神様を少しも喜ばせなかった者が、全く父なる神様を喜ばせてばかり来た者のように受け入れられる。つまり上なる者が下に、そして下なる者が上に、この交差、クロスこそがイエス・キリストの十字架であったと言うのであります。

新たな出発(2011.10.16)

宣教題  : 「新たな出発」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 16章12節~18節
聖書には、多くの出発(旅立ち)の出来事が記されています。何よりも主イエスご自身が、その弟子たちとともに日々旅に生きたお方でした。そして、今日の私たちの信仰の出発は、復活された生ける主イエスの命令と約束に生きることから始まります。

1.主イエスを仰ぎ見るときから  14節
主イエスと一緒にいた人たちの中には、キリストの復活の事実を聞いても「信じなかった」とあります(11、13、14節)。彼らが信じようとしない原因は、「かたくなな心」にありました。主イエスは、それをお叱りになっています。
このように「信じなかった」者たちは、その後、神のあわれみによって、不信仰な心、かたくなな心を取り去られ、神の救いの恵みにあずかる者と変えられました。それは、彼らが「復活されたイエスを見た人々」と同じように、キリストを仰ぎ見る者となったからです。
信仰とは、現実を見て失望したり、他人を見てうらやんだり、自分を見て惨めになるのではなくて、主イエスを信じて仰ぎ見ることなのです(詩編34編6節)。この仰ぎ見る日々の連続が、仰ぎ見る生涯となるのです。

2.主イエスの弟子になるときから  15~18節
主イエスは、ご自身を仰ぎ見る者たちに、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と命じられました。福音が、神に造られた人々に宣べ伝えられることによって、人々が主の弟子になることができるからです(マタイ28章19節)。主イエスは、ご自身を信じて洗礼を受け、神のものになることを欲しておられるのです。しかも、主イエスは、人々を悪魔的な力から解き放ち、キリストとその御業が語られることによって、不可能と思われることを可能とされるのです。
マルコによる福音書は、イエス・キリストの素晴らしさを証言するとともに、人間の弱さや罪深さをストレ-トに語っています。こうした弱く罪深い者が造り変えられて主イエスの弟子となり、福音を証言していったのです。私たちは、主イエスの弟子とされて、新しい出発をさせていただきましょう。

ボランティアの祝福

16年前の阪神淡路大震災のとき、遠くから近くからボランティアの人々が駆けつけ、無償の奉仕を喜んでささげてくださいました。今年の東日本大震災においても、祈りと支援金と時間と労力がささげられています。
そこには、ボランティアが生み出す多くの祝福があります。

ある専門家が、「明確な説明はまだされていないが、他人を支援することは、強力な健康促進剤になる。他人を思いやることによって目的意識が高まり、生きがいを感じるからである」と語っていました。聖書には、「愛によって互いに仕えなさい」とありますが、ここに大きな祝福があるのです。
神戸中央教会 牧師 川原﨑晃

神の必然としてのリバイバル(2011.10.2)

宣教題  : 「神の必然としてのリバイバル」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 16章11節~15節
主の恵みが満ち満ちて、それが溢れ出でて周囲を変革していくのが「リバイバル」と言われています。その「リバイバル」の本質は、主イエス・キリストが崇められ、主イエス・キリストが拡大されていくことです。それは、日常的なことであり、その備えがいつもなされていることが求められます。

1.「主が」心を開かれる  14節
主がヨ-ロッパ伝道に導いておられると確信したパウロ、シラス、テモテ、ルカたちは、当時小ロ-マと言われた「フィリピ」に到着しました。彼らは、そこの祈り場に集まっていた婦人たちに福音を語りました。その中に居合わせたリディアは、「神をあがめる」敬虔な婦人で、主がその彼女の霊の目を開かれたので、語られることを集中して聴き、回心へと導かれました。
真のリバイバルは、このような「敬虔の気風」を生み出し、それが教会の気風となり、教会を決定づけます。そのためには、一人ひとりが不敬虔から敬虔への人生に変えられ(ルカ23章40節)、それが深められることが必要です。何よりも、毎週繰り返される礼拝において、私たちは信仰の基本に立ち返り、敬虔であることを慕い求め、敬虔の鍛錬をされていくことが大切なのです(1テモテ4章7節)。

2.「主に」忠実である  15節
リディアとその家族は、共に洗礼を受けました。そして彼女は、自宅にパウロ一行が泊まるように愛をもって招待しています。こうして、この家族が中心となって、「喜び」を最大の特徴とするフィリピ教会が誕生しました。それ以来、彼女の家を拠点としてフィリピ伝道がなされ(16章40節)、「献身的な気風」に満ちた教会となりました(フィリピ4章15~16節)。
こうした気風は、「主を信じる者」すなわち「主に忠実な者」たちが、一つになって集まる所に生まれます。「世界聖餐日礼拝」は、こうしたことを重んじて生まれました。私たち一人ひとりは、主イエスを信じる信仰をもって、主に忠実に、また主に真実に生きるならば、途絶えることのないリバイバルが生まれるのです。

主の道を守る民(2011.10.9)

宣教題  : 「主の道を守る民」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : 創世記 18章16節~22節
教会の宣教のわざは、決してきれいごとですむようなものではない。教会にはソドムやゴモラのような世界に祝福を届ける使命が与えられているからだ。

1.ソドムとゴモラの現実
ソドムとゴモラは邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた(13章13節)。そして、町から天に上る公正な審判を求める叫び声は大きい(18章20節)。正義が行われず、立場の弱い人々が食い物にされていたからだ。主はそこに行かれ、現実を知り、介入される(18章21節)。ソドムとゴモラは現代日本を映している。

2.主の道を守る民
主はアブラハムを選ばれた。ソドムとゴモラと無縁ではない場所で、彼自身がソドムや他の神々の道ではなく、主の道を守るためである。さらに、彼の子孫たちも主の道を守って正義に生きるよう、彼らに命令し、教えることを主は彼に求めた(19節)。宣教のために、主への従順に生きる人々が継続して起こされ、主の道を守ることが伝統として引き継がれる必要がある。つまり、イエスの命令のすべてを守るように教えることによってイエスの弟子を養成することは、教会の宣教に必須である(マタイ28章18~19節)。

3.主の祝福を届ける
宣教のゴールは、アブラハムとその子孫たちが主に従って歩むことではなく、主が結ばれた約束、つまり世界の民の祝福の実現だ(18章19節)。そして、ソドムへの宣教を願っておられたからこそ、主はアブラハムに介入の機会を与えた(18章17節)。そして、アブラハムは大胆にソドムの民のために主ににじり寄り、主はその交渉に応じられた(18章23~32節)。
神の恵みによって選ばれた私たちは、神の宣教のわざが教会によって実現するため、主に従うよう招かれている。だから、主がソドムへ下って行かれたように(18章21節)主の道を守る者として積極的にこの地に関わっていこう。