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2011年4月10日

大いなる肯定(2011.4.10)

宣教題  : 「大いなる肯定」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書  14章43節~52節

私たちは、主イエスの救いに招き入れられ、このお方に導かれて歩む者ですが、いったいどこまで主に従っていけるのでしょうか。主の弟子たちは、主の十字架の死に至る最後まで従い切ることができず、ついには主を否んで逃げ、また捨ててしまいました。

1.恐れを抱く主の弟子
イスカリオテのユダはイエスを裏切り、人々を用いて捕えさせ、十字架に追いやってしまうという罪を犯しました。そこには、主を裏切ることに対する恐れがありました(43~45節)。その裏切りは、主の選びを拒否したことから生まれたのです(ヨハネ6章70~71節)。
そして、ペトロを含む「弟子たちは皆、イエスを捨てて逃げてしまった」(50節)のでした。彼らは人を恐れたのです。
さらに、「一人の若者が・・・裸で逃げてしまった」(51~52節)とあるのも、人に対する恐れからです。この若者は、マルコではなかったでしょうか。
主イエスを見捨てて死に追いやったのは、主の弟子たちだけのことではありません。私たちもまた同じではないでしょうか。

2.愛で包み込まれる主イエス
主イエスは、神の御子を裏切り、見捨て、否定してやまない人々の罪を引き受けて、それを赦し、新しく造り変えるという大いなる肯定へと逆転され、愛で包み込まれました(ヨハネ18章9節)。
主の弟子たちがそうであったように、私たちは主イエスに対して当てがはずれた、との思いを持つことがあります。そのような時、私たちの信仰は試され、ふるわれ、純粋なものにされます。そうなるためには、私たちは主に召されて、その愛に捕えられている者であることを知って、主の御足の跡を踏み従っていくことが大切です(1ペトロ2章21節)。それは、卒業のない、生涯のテ-マです。