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2011年4月

死はもはや支配せず(2011.4.24)

宣教題  : 「死はもはや支配せず」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ16章6節~7節、ロ-マ6章8~11節
「生」と「死」は、聖書が私たちに投げかけている一大テ-マです。それは、死に支配されたままでいるか、それとも死にもはや支配されていないか、との問いかけでもあります。
聖書は、「死はもはや支配しない」と宣言しています。

1.キリストが「復活」されたから
人は例外なく死に支配されています。それには肉体の死だけではなく、生きながらにして希望や喜びや愛に生きることを失った状態でいる死もあります。
それは、神から離れて生きている罪の結果による死です。「罪の支払う報酬は死です」(ロ-マ6章23節)と語られているとおりです。
十字架の死から復活されたキリストは、死に支配されることのないお方です
(マルコ16章6節、ロ-マ6章9~10節)。私たちは、このキリストに捉えられ(マルコ16章7節)、キリストに結び合わされて身を任せていくならば、もはや死の支配に生きることはないのです(ロ-マ6章8節、11節)。

2.キリストが「主」であるから
「死は・・・支配しません」とは、「死はもはや主でありません」という意味です。復活のキリストに結び合わされた者は、「キリストが主です」と告白するのです。私たちに死は存在しますが、それがもはや主ではなく、復活されたキリストを主とする信仰の歩みを続けることです。
この信仰は、教会の中心をなすものです。その根拠は、それを証言する聖書が残されていますし、キリストの復活の証人が絶えることがありませんでしたし、教会が存続していることに見い出すことができます。しかし、歴然たる証拠は、私たち自身が、復活されたキリストを「私の主です」と告白して生かされていることです。
復活された主イエス・キリストの恵みに捉えられ、生かされ、支えられているならば、死はもはや支配しないのです。

主の宝の民となる(2011.4.7)

宣教題  : 「主の宝の民となる」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : 出エジプト記    19章1節~9節
主がなして下さった罪からの解放のわざを経験し続けることこそ、主と共に歩むキリスト者生涯の「型」に欠くことができない土台である。解放された民は、主の宝となる道を進む。

1.主の宝の民となる条件
主の宝の民となるための条件は、主の声に聞き従い、その契約を守ることである(19章5節)。これはその生き方において、これまでとは異なる、新しい型を学ぶことを意味する。意識的に選ばなくても、難しい訓練をしなくても、ガラテヤ5章19~21節に描かれている肉のわざを行うことができる。しかし、主の所有とされたキリスト者は、ガラテヤ5章22~23節に描かれている聖霊の実という「新しい型」を学ぶように招かれている。意識的に選びつづける訓練なしに、新しいこの型を身につけることはできない。
なぜ、このような型を学び、訓練する必要があるのだろうか。それは、主ご自身が「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」をもってご自身が創造された世界に関わり続けておられるからである。武道の型と同様に、主が働かれるその動線に従って、主の民はこの世界でからだを動かす。その結果、宝の民として主の働きに参加するという召命(19章5節)に応えることができるのだ。

2.律法主義?
この条件はいわゆる「律法主義」だろうか。そうではない。主が罪の奴隷から解放して下さっためぐみが私たちの内なるものを変え、それゆえに、聖霊の実という新しい生き方の型が私たちのからだに生み出されていく。あれができなかった、という減点主義で恐れおののく必要はない。解放という主のめぐみに応えて、喜んで、新しい生き方の型を選び続け、前にからだを伸ばすべきだ。
生き方の新しい型を選び続けていくとき、主の所有物であるこの全世界のまん中で主のわざに参加している、主の宝の民と成長する。きよめの生涯の成長をここに見いだすことができる。

ほほえみ+ありがとう

物が言えない私は 有難うのかわりにほほえむ
朝から何回もほほえむ
苦しいときも 悲しいときも 心からほほえむ
(瞬きの詩人 水野源三の詩集より)

ほほえむこと、そして「ありがとう」の一言、この中に人生を変えてしまうほどの力がありますね。この度の東日本大震災で被災された方々が、笑顔と感謝の言葉を交わしておられるニュ-スを拝見しました。

将来と希望を与えてくださる神さまがおられます。私たちは、勇気を失うことなく、ほほえみと感謝をもって歩んでいきたいものです。
神戸中央教会 牧師 川原﨑晃

大いなる肯定(2011.4.10)

宣教題  : 「大いなる肯定」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書  14章43節~52節

私たちは、主イエスの救いに招き入れられ、このお方に導かれて歩む者ですが、いったいどこまで主に従っていけるのでしょうか。主の弟子たちは、主の十字架の死に至る最後まで従い切ることができず、ついには主を否んで逃げ、また捨ててしまいました。

1.恐れを抱く主の弟子
イスカリオテのユダはイエスを裏切り、人々を用いて捕えさせ、十字架に追いやってしまうという罪を犯しました。そこには、主を裏切ることに対する恐れがありました(43~45節)。その裏切りは、主の選びを拒否したことから生まれたのです(ヨハネ6章70~71節)。
そして、ペトロを含む「弟子たちは皆、イエスを捨てて逃げてしまった」(50節)のでした。彼らは人を恐れたのです。
さらに、「一人の若者が・・・裸で逃げてしまった」(51~52節)とあるのも、人に対する恐れからです。この若者は、マルコではなかったでしょうか。
主イエスを見捨てて死に追いやったのは、主の弟子たちだけのことではありません。私たちもまた同じではないでしょうか。

2.愛で包み込まれる主イエス
主イエスは、神の御子を裏切り、見捨て、否定してやまない人々の罪を引き受けて、それを赦し、新しく造り変えるという大いなる肯定へと逆転され、愛で包み込まれました(ヨハネ18章9節)。
主の弟子たちがそうであったように、私たちは主イエスに対して当てがはずれた、との思いを持つことがあります。そのような時、私たちの信仰は試され、ふるわれ、純粋なものにされます。そうなるためには、私たちは主に召されて、その愛に捕えられている者であることを知って、主の御足の跡を踏み従っていくことが大切です(1ペトロ2章21節)。それは、卒業のない、生涯のテ-マです。

心燃える祈り(2011.4.3)

宣教題  : 「心燃える祈り」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書 14章32節~42節
この箇所は「ゲツセマネの祈り」と呼ばれおり、主イエスが十字架を前にして苦闘の祈りをささげられた所です。そこに居合わせた弟子たちが、主イエスの警告の言葉に不感症となり、醜態を演じた所でもあります。

1.主イエスの祈り
主イエスはこの時、ただならぬ激情に襲われておられます。人が理解できないほどの途方もない力の前に、父なる神から捨てられる者が経験するほどの恐れを持たれ(33節)、普段では見られない姿で祈っておられます(34~35節)。
これは、私たちが持つ弱さや恐れや罪を変わって受け取ってくださっている祈りでした。
それは、全能の神にひたすら信頼しつつ、全知の神への従順を表明された祈りでした(35~36節)。ここに、神の怒りを一身に受けようとしておられるお姿があります。
このようにして、主イエスは、ゲツセマネの激しい祈りから続く十字架の苦しみを経験してくださったので、私たちの「永遠の救いの源」となってくださることができたのです(ヘブライ5章8~9節)。

2.主の弟子の祈り
この主イエスの祈りを見聞きしていた弟子たちは、主イエスから「目を覚まして祈っていなさい」(34、38節)と命じられなければならないほど、事実「弟子たちは、眠っていた」(37、40、41節)のでした。主イエスはそんな彼らに同情しつつ、誘惑に陥らないために、試練に打ち勝つために祈ることを命じられたのです(38節、マタイ6章13節)。
私たちは、ゲツセマネの弟子たちのようでない、と誰がいえるでしょうか。十字架に死んで復活されたキリストに信仰によって結び合わされ、呼吸するようにキリストと交わり続けることによって、常に目をさまして心燃える祈りを続けることが大切なのです。