メニュー 閉じる

2011年3月

鷲の翼に乗せられて(2011.3.27)

宣教題  : 「鷲の翼に乗せられて」   宣教:   鎌野 直人師
聖    書  : 出エジプト記   19章1節~9節
武道に「型」があるように、神と共なるキリスト者の歩みにもふさわしい「型」が存在する。この型は私たちを縛らず、神の導きに従って私たちが歩む事ができるようにする。旧約聖書と新約聖書で一貫し、その原型は出エジプト記19:4~6に描かれており、キリスト者生涯の過去、現在、将来をそこに見いだすことができる。キリスト者が覚えるべき過去について19:4から考えてみたい。

1. 主のもとに連れてこられる
シナイ山のふもとにイスラエルの民が連れて来られる(19:1)までに、様々なことが起こっている。主の召命によってパレスチナに来た父祖たちが、摂理の中でエジプトに導かれ、そこでパロの奴隷となってしまった。しかし、民の叫びを聞かれた主が、エジプトの王を十のわざわいで打ちのめし、その軍を葦の海での戦いで打ち破った。このようにして、主はエジプトの奴隷からイスラエルを解放した。それだけではなく、イスラエルの民は神のもとに連れて来られた。単に神のそばに来たのではなく、彼らは神の所有の民となった。
大切なことは、私たちを解放して下さり、神のものとされた過去の神のみわざに基づいてキリスト者ひとりびとりがあるという点である。

2.あなたたちは見た
しかし、神のわざが過去の事実では終わってはならない。神のわざを「見た」、すなわち経験することが強調されている。知的なものに止まらない。「君もそこにいたのか」とあるように、神のわざを臨場感をもって自分の体験とすることこそがキリスト者には必須である。
イスラエルの民であるならば五書を読み、まさに出エジプトの神のわざを体験する。キリスト者は福音書を読み、イエスの生涯と十字架と復活を弟子たちと共に目の当たりにする。これを日々体験し続けることのなしに神と共なる歩みはありえない。私たちは神の救いのわざを日々見ているだろうか。

信仰によって生きる(2011.3.20)

宣教   : 「信仰によって生きる」   宣教:   岸本 望 師
聖    書  : ローマの信徒への手紙  5章1節~11節
ロ-マ書は、5章から新しい展開に入ります。即ち、信仰によって義とされた者の生活、つまり<信仰によって生きる>ことがテ-マとなります。
パウロは「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず」(2コリント4章8節)という生き方を語っています。これこそが聖書の約束する、信仰によって生きる者の姿です。一体、何がこのような命を生きさせるのでしょうか。

1.神との間に平和を得ている
聖書は「神との間に平和を得ており」(1節)と記しますが、果たして私たちは本当に平和を持っているでしょうか。平和を得ていると告白するパウロは、すぐ後に「苦難をも誇りとします」(3節)と語りますから、苦難の中にあるのです。しかじ、その苦難の中でなお経験できる平和を持っているのです。
その根拠は、「信仰によって義とされ」(1節)ているからなのです。義とされるとは、私たちの道徳的な状態をいうのではなく、神との関係をいうのです。それがすなわち「神との間の平和」なのです。神との関係は、人間の罪によって断たれたのですが、ユダヤ人は律法を守ることによって回復しようとして失敗しました。今、私たちはキリストを信じることによって与えられるのです。

2.希望は私たちを欺くことがない
神との平和は、栄光に与かる希望をもたらします。そしてこの「希望は欺くことがありません」(5節)と言います。これこそが途方に暮れても行き詰まらず、苦難にあっても喜ぶ命を生きさせるのです。聖霊はこのような命に生きさせるために私たち信じる者の内に注がれているのです。
信仰によって義とされた今、信じる者の内に住んでくださる聖霊によって揺るがない希望が与えられ、絶望と思われる中で希望を、困難の中で平和を与えられて生きる、これが信仰によって生きることです。パウロと共に「キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ」(2節)と感謝しましょう。

キリストの仲間(2011.3.13)

宣教題  : 「キリストの仲間」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書 14章27節~31節 66節~72節
私たちは主イエスと出会って後、続けて主イエスとつながり続け、交わり続けていくとき、キリスト者としての生涯が造られていきます。
ペトロがキリストの仲間であり続けた背後には、変わることのない主イエスの招きがありました。

1.キリストに知られている  27~31節
主の晩餐が終わるや、主イエスは弟子たちに、「あなたがたは皆わたしにつまずく」ことを明言されました(27節)。あわせて主イエスは、先立つご自身の歩みを示しつつ、弟子たちを見捨てることなく導かれるとの約束をされています(28節)。
それに対してペトロは、主イエスの予告を聞き流して自己過信し、「死ななければならないとしても」と、必要以上に大げさに受け取り、主の約束をあなどっています(29~31節)。
主イエスは、そのようなペトロを知り尽くし(ヨハネ2章24~25節)、その愛と真実は変わることがありませんでした。私たちは、信仰生活のすべての面において主イエスに知られていることに安心を覚えるのです。

2.キリストに受け入れられている  66~72節
主イエスが最高法院で裁判を受けておられたときに、ペトロは三度も主イエスを否認しました。それは、主イエスを裏切るという、人間の惨めな姿を現わしています。これこそが、主イエスを十字架に追いやった罪であり、ペトロだけでなく、私たちのことでもあるのです。
そんなペトロを立ち直せるきっかけとなったのは、あらかじめ警告しておられた主イエスの御言葉と主イエスのまなざしでした(ルカ22章61節)。それに耐えきれなくなったペトロは、「いきなり泣きだし」悔いています。
私たちは、ペトロ同様に、復活の主イエスに立ち帰り(1ペトロ2章25節)、主イエスと正面から向き合う生き方をしていくことが必要なのです。

主の愛と忍耐(2011.3.6)

宣教題  : 「主の愛と忍耐」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録13章13節~14節、2テモテ4章11節bc

神は、バルナバとパウロ、パウロとマルコといった関わりの中で、ひとり一人を造り変え、神の栄光を現わす器として用いられます。キリストの愛と忍耐は、「マルコと呼ばれていたヨハネ」(使徒言行録12章12節)を狭い檻の中に閉じ込めないで、伸び伸びと生かしました。

1.人を造り変えられる
マルコは、ペトロが「わたしの子マルコ」(1ペトロ5章13節)と言っているように、ペトロによって信仰に導かれたと思われます。彼はバルナバのいとこであったこともあり、パウロたちと一緒に海外宣教に遣わされました(使徒言行録13章5節)。
ところが、マルコは伝道旅行の途中で離脱し、出身教会のエルサレムに帰ってしまいました(使徒言行録13章13節)。そのようになった理由は、彼の信仰的な弱さ、福音理解の狭さといったものがあったと思われます。しかし、後にパウロは、ロ-マの獄中に一緒にいるマルコを「協力者」と呼び、執り成すほどになりました(コロサイ4章10節、フィレモン24節)。愛と忍耐に富んでおられる主は、このように人を造り変えられます。

2.人を用いられる
殉教前にロ-マの獄中にいたパウロは、テモテと一緒にマルコが来るように要請しています。というのは、彼は役に立つ器であると信頼していたからです(2テモテ4章11節)。
その後のマルコの消息は明らかではありませんが、少なくともペトロが見聞きした証言の記録である「マルコによる福音書」が記されました。主の愛と忍耐が、マルコをこのように導くとともに、バルナバやパウロやペトロの愛の配慮も用いられて、マルコを有用な器としたのでした。
主は愛と忍耐をもって、私たちに最善をなされるお方です。この主を信じ、信頼し、従う恵みを大切にしたいものです。

ふれあい

「因果応報」とは、古くさいばかりか、嫌な感じもする言葉です。

しかし、「因」と「果」の間に、「ふれあい」「出会い」というものが入ると、変化と新しい展開が起こるのではないでしょうか。

聖書が証言している神は、天網恢恢、疎にして漏らさない正しい神であられるのに、止みがたい愛とあわれみの心から、広大無辺でしかも緻密な愛を注いで、その愛の出会い、いのちの「ふれあい」をしてくださるお方です。

あなたも、この不思議な愛にふれられて、新しい歩みを始めてみてください。
神戸中央教会 牧師 川原﨑晃