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2011年2月20日

忘れるな(2011.2.20)

宣教題  : 「忘れるな」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  14章22節~26節
主イエスは、過越の祝いの席において、聖餐の制定をされました。これを通して、主イエスは、私たちが主ご自身とその恵みの深さを忘れずに日々を過ごすことを教えられたのです。

1.主ご自身を忘れるな
過越の食事のテ-ブルマスタ-は、家長でした。ここでは、途中から主イエスがそれをされています。「イエスはパンを取り・・・杯を取り」とあるように、明らかに「主」が備えてくださった「晩餐」でした。ですから、主イエスが「取りなさい。これはわたしの体である。・・・わたしの血である」と言われたとき、弟子たちは主イエスから受け取ったのです。
さて、パウロが「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」(1コリント11章23節)と語っているように、主イエスは、聖餐の場に特別に臨在しておられるのです。ですから、今日も聖餐のパンとぶどう汁を司式者を通して受け取ることは、主イエスから受け取るとの信仰が必要なのです。そうするならば、主イエスを忘れることはないのです。

2.主の恵みを忘れるな
「これはわたしの体である」とパンを裂かれたことは、私たちのためになされたことでした(1コリント11章24節)。また、手渡された「杯から飲んだ」ぶどう汁は、私たちを罪から解き放つ完全な救いを成し遂げてくださった十字架の血潮を意味します(ヘブライ9章12節)。主イエスが、賛美と感謝の祈りを唱えて執り行われたことは、そこに救いの恵みがあるからです。
パウロが「わたしの記念として行いなさい」と二度繰り返したのは(1コリント11章24~25節)、主の救いの恵みを、主のご再臨まで忘れずに語り続けるためでした(同26節)。
このようにして私たちは、聖餐の恵みに与かる度ごとに、罪を赦し、それを祝福の転機としてくださる主イエスの恵みを受け取り続けていくのです。