メニュー 閉じる

2010年12月

起きよ、光を放て(2010.12.26)

宣教題  : 「起きよ、光を放て」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : イザヤ  59章21節~60章3節
私たちは、イエス・キリストの救いの恵みに対して、いつも信仰によって応答していくことが求められています。それは、「起きよ、光を放て」と立ち上がらせていだくことであり、まことの光であるキリストをこの世に持ち運ぶ者に造り変えていただくことです。

1.光である主に引き寄せられている 
主なる神は、罪ゆえに神の恵みを受けられないでいる者に対して(59章1~2節)、執り成し、燃えるような情熱をもって、ご自身の方から救いの手を差し伸べられました(59章16~17節)。ここに、初臨のキリストが預言されています。また、全世界を支配される栄光の輝きをもって「贖う者」として来られます(59章18~20節)。ここに、再臨のキリストが預言されています(60章19~20節)。
私たちは、自ら輝くことはできませんが、主に引き寄せられ、主の栄光に照らされて輝く者となるならば(60章1~2節)、他者もその感化を受けて光なる主に引き寄せられていくのです(60章3節)。闇の中から起き上がり、主なる神の光を放つ者となりましょう。

2.御言葉の光に照らされ続けている 
主なる神は、人が持っている力によってではなく、神の霊が伴う神の御言葉の力によって、ご自身の光を放ち続けられます。そのためには、人は自らの不信仰と不従順の罪を悔い改めることが大切です(59章20~21節)。
いつの時代であっても、聖霊が働かれるところには、御言葉が語られ、それが聴かれ、その実が結ばれていきます。御言葉に聴従しているならば、そこには聖霊が働いておられるのです。
神の子とされた私たちは、御言葉の光に照らされ続けて、「起きよ、光を放て」との主なる神の招きに、信仰による応答をしていきましょう。

恵みは豊かに(2010.12.19)

宣教題  : 「恵みは豊かに」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネ  1章14~18節
イエス・キリストは、人としては父なる神との親密な愛の交わりを持たれ、神であるということにおいては御父とまったく等しいお方です(14節、18節)。このお方には、「恵み」が豊かに満ちています(14節、16~17節)。そこで私たちは、この恵みに与かり続ける経験が大切です。

1.キリストの栄光を見る経験  14節
キリストは、「わたしたちの間に宿られた」のです。これは、キリストが私たちの間に住み着くようにして、私たちを神の仲間に入れてくださったことを意味しています。
その結果、「わたしたちはその栄光を見る」ことができたのです。そのことが最も鮮やかに現わされたのが、キリストが十字架において神の救いを成し遂げられたことによってであり(ヨハネ12章23~24節)、復活されて勝利されたことによってでした(同17章24節)。
私たちは、罪ゆえに神の栄光を受けられなくなっていたのですが、キリストの救いの恵みによって(ロ-マ3章23~24節)、神の仲間とされ、神を礼拝する者とされたのです。

2.恵みから恵みへと導かれる経験  16節
この恵みは、私たち皆が継続して受けていくものです。それは、「恵みの上に、更に恵みを受けた」とあるように、恵みを新たにし続けていただくことです。順境の時は順境の恵みが、逆境の時には逆境の恵みがあるように、キリストが与えてくださる恵みは、切れ目なく続き、尽きることがなく、常に生き生きと躍動していて、必要な時に大きな働きを生み出す力を持っています。
私たちはこの豊かな恵みに出会い、それを受け取り、そこに立ち続けるのです。そのためには、イエス・キリストの前に身を屈め、頭を垂れ続けていることが大切なのです。

あなたを待っておられる主(2010.12.12)

宣教題  : 「あなたを待っておられる主」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネ  1章9~13節
待降節は、救い主を待つ、再臨の主を待ち望むという時です。しかし、ここでは「待つ」ということを百八十度転換させて、イエス・キリストが私たち一人ひとりを待っておられるということに想いを馳せ、それに応えていくときとしたいものです。

1.「まことの光」に立ち返る  9節
イエス・キリストこそが、「まことの光で、世に来てすべての人を照らす」お方でした。この世界は、今なお神の恵みに完全に服していませんし、多くの人が罪と死の支配にとらわれたままの暗闇の中を歩んでいます。
ですから私たちは、「まことの光」に出会い、立ち返ることが必要なのです。それは、自分が作り出した光の中を歩むことではなく、イエス・キリストが十字架の死と復活によって照らし続けてくださる「まことの光」の中を歩み続けることなのです。
私たちは、「まことの光」であるイエス・キリストを目の前に見ているか、それとも背を向けて暗闇の影を見ているかを問いかけられているのです。

2.神の子とされる  12節
イエス・キリストは、「神の子となる資格を与え」ようと私たちを招いておられます。神の子とされるのは、人間の血筋によってでもなく、人間の努力によってでもなく、また人間の願望によってでもなく、ただ「神によって生まれた」との神の一方的な恵みによるのですから、神が最後まで責任をもって導いてくださいます(13節)。
私たちがそれに与るには、イエス・キリストご自身と、このお方が語られた御言葉と御業を信じ、それを自らにあてはめて受け入れることが必要です。そして、私たちが安んじてイエス・キリストに身を任せていくなら、神の子としての歩みを確かなものにしてくださるのです。

光はここに(2010.12.5)

宣教題  : 「光はここに」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネ  1章1~8節
クリスマスの出来事が羊飼いたちに告げ知らされたのは、「夜」の出来事でした(ルカ2章8節)。今日の世界に「夜」があり、私たち自身に「夜」があります。しかしその夜の真っただ中に神の恵みの「光」が訪れました。それがクリスマスです。

1.光は暗闇の中で輝いている  1~5節
永遠の命の光であるキリストは、この世界の「暗闇」のただ中に訪れられました。暗闇は、神抜きの人生が生み出す人間の憎悪・恐れ・無関心などの姿であり、神から離れた人間の罪ある姿であり、死の恐れに支配されている姿を現しています。
こうした暗闇は、光であるキリストを理解できず、受け入れることができませんでした。この暗闇がキリストを十字架に追いやったのですが、その死からの復活によってキリストは勝利されたのです。
光であるキリストは、暗闇がどんなに深くても、輝き照らすことを止められません。「光は暗闇の中に輝いている」のです。

2.光は証しされる  6~8節
ここに、光であるキリストを証しするバプテスマのヨハネが登場します。彼は、歴史の舞台に神の目的のもとに、神から遣わされた人でした。彼は、光であるキリストによって自分の身の上に起こった出来事を証しするために、光の中を生かしてくださるキリストを証しするために遣わされたのでした。
ところで、バプテスマのヨハネは、自分が「声」であることを知っていました。声は、ある内容を伝えた瞬間消えていきます(1章15節、23節)。彼は、そのようなキリストの証人として用いられることを喜んでいるのです(3章29~30節)。私たちは、自らの存在や言動を通して、光なるキリストとその救いの恵みが見えてくる証人とならせていただきましょう。