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2010年10月

その時、あなたは(2010.10.31)

宣教題  : 「その時、あなたは」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  13章14節~27節
聖書は、神の約束どおりにキリストの初臨が成就したように、キリストの再臨があることを約束しています。時は、この約束の成就に向かって確実に縮まっています。私たちは、そのことを自覚して、それにふさわしく生きることを忘れてはなりません。

1.苦難の時に  14~23節
「それらの日には・・・今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである」(19節)とは、紀元後70年にロ-マ軍によるエルサレムの町と神殿の破壊や民への虐殺また飢餓が起こること、偽キリストや偽預言者がクリスチャンを惑わしたりすることの預言です。
こうしたことは、世の終末にも起こることであり、とりわけクリスチャンの信仰を脱線させようと試みる者がいるので、毅然としているようにと警告されたのです。そして、主イエスは、こうした苦難の中にあるクリスチャンたちを「主はご自分のものとして選んだ人たち」と呼ばれて、彼らを忘れることなく、最後まで責任をもって守られることを約束されました。
私たちは、主なる神に選ばれているとの揺るぎない根拠があるので、苦難に耐えることができるのです。

2.主の再臨の時に  24~27節
このような苦難の後の終末には、天体の大異変とキリストの再臨があります。この時、キリストによって選ばれたクリスチャンたちは、呼び集められてキリストのもとへと引き上げられるのです。この再臨のキリストこそが、真の審判者であり、私たちの真の望みです。
再臨の主を待望する私たちは、神の恵みだけを頼りにして、凛としてキリストを仰ぎ続けて生きるのです(ルカ21章28節)。そのように生きるならば、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」との使徒信条が、生きた告白となるのです。

あなたも家族も(2010.10.24)

宣教題  : 「あなたも家族も」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録   16章25節~34節
日本人の宗教意識には、信仰を持つということが、社会や家族から遊離された形で生きることと思っているところがあります。しかし、聖書が語る「救い」とか「信仰」は、聖書の約束にあるように「あなたも家族も」に及ぶものなのです(31節)。

1.救われます
ここには、迷信と商売と政治の混乱した世界の中で(使徒言行録16章16~24節)、家庭と誇りを背負いつつ自縄自縛の人生を生きる看守がいます(同27節)。要するに、救いを失った人間の姿があります。
そうした混乱の中にあって、パウロとシラスは、真夜中の牢獄で神に賛美をし、神に祈って礼拝をしていました(25節)。ここに、神の救いの力が現われています。救われるということは、いかなる時であっても、神が共におられることを知って、神を信頼し、神を讃え祈る者と変えられることです。
看守は、恐怖の中に置かれて「(私が)救われるためにはどうすべきでしょうか」と二人の伝道者に懇願しました。彼らは、明確に「あなたも家族も救われます」と、家族にまで及ぶ神の救いの福音を宣言したのです(30~32節)。神の救いは、神と人の回復のみか、人と人の回復にまで及ぶのです。

2.主イエスを信じなさい
「主イエスを信じなさい」とは、主イエスを信頼して、自分自身とその生涯を任せなさいということです。そのようにすれば、「あなた」という個人とともに、「家族も」救われて、家族全体が喜びと平安と愛に包まれる祝福にあずかるのです。
ひとり一人が信仰を言い表して「洗礼を受け」、キリストの愛と赦しと和解に生きるようになり、「神を信じる者となったことを家族ともども喜んだ」(33~34節)との恵みの輪が広がることを祈りましょう。

希望に生きる(2010.10.17)

宣教題  : 「希望に生きる」   宣教:   和田 治  師
聖    書  : ヨハネ3章1~21節
真の神様は、私たちの将来を明るくしようとしておられ、私たちを希望で満たし、確かに幸せにすることのできるお方だと、聖書は言っています 。

1.新しくされることは必要?
自他共に認める「正しい人」で裕福でもあったニコデモ。しかし、何かが足りないと感じていました。確信を持って「私の将来は明るい」と希望を告白することはできなかったのです。ゆえにイエス様を訪ねました。イエス様は、「新しく生まれる以外に、真の希望に生きる方法はない」と教えなさいました。では、どうすれば新しく生まれることができるのでしょうか。

2.新しくされる方法は?
5節にあるように「霊から生まれる」、つまり神からの命に生まれることによって新しくされる、とイエス様はおっしゃいました。それは、15節にあるように、イエス様を信じるときに起こるというのです。
罪という猛毒、死に至らしめる、滅びへとおとしめる罪の力から、イエス・キリストを救い主として仰ぎ信じるだけで、解放され、きよくしていただけるのです。イエス様は私たちの罪を負って、十字架でその罰を受けてくださいました。このお方を信じるだけで、罪を一度も犯したことのない、新しい者とみなされるというのです。

3.新しくされた結果は?
「永遠の命を得る」とあります。本当でしょうか?
キリストの復活は誰も否定することができない「事実」です。ということは、キリストを信じれば、少なくとも二つのことが確実になります。人間の最大の敵である「死」に勝利なさったお方と一つになるのですから、どんな問題があっても大丈夫、と言えるのですね。これこそ真の希望でしょう。
そしてもうひとつ。キリストは復活したのですから、このお方を信じる私たちもまた、やがて復活する、ということです。永遠の命につながる真の希望に、あなたはすでに生かされていますか?

主のみ手があったので(2010.10.10)

宣教題  : 「主のみ手があったので」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  11章19節~26節
キリストの弟子たちが「キリスト者(キリストに属する者)」と呼ばれるようになったのは、アンティオキア教会においででした(26節)。この教会は、「主のみ手が彼らと共にあった」(21節、口語訳聖書)ことによって誕生しました。主のみ手があるところには、神の恵みが現われます。

1.神の恵みの力が現われる  19~21節
迫害という試練の中で伝道は前進して行きました。中でも、キプロス島やキレネ出身の無名の信徒たちが、異邦人に主イエスの福音を伝えました。その中には、キレネ人シモンとその家族が加えられていたか、彼らの信仰の感化を受けた人々がいたと思われます(マルコ15章21節、ロ-マ16章13節)。その結果、不道徳と偶像崇拝の空虚な生き方をしていた多くの人たちが、主イエスに立ち帰りました。こうして、アンティオキア教会が異邦人伝道の拠点となったのです。
忘れてならないことは、「主のみ手が彼らと共にあったため」、すなわち主イエスの十字架と復活に現わされた神の恵みの力に与かった人たちによって、伝道が展開され、教会が誕生したのです。

2.神の恵みの拡がりが現われる  22~26節
エルサレム教会は、このアンティオキア教会の信徒たちの信仰指導をするために、バルナバを遣わしました。それには理由がありました。バルナバは、異邦人伝道に理解と使命を持っていたからであり(使徒言行録4章36~37節)、主のみ手が働くところには神の恵みを見ることができるとの霊的洞察力が与えられていたからであり(同11章23~24節)、伝道の前進のためにサウロを用いる広い心が備えられていたからです(同25~26節)。
後にパウロとバルナバが伝道旅行から戻ったとき、伝道は神ご自身が伝道する者と共にいて、その恵みのみ手をもって拡大されると証言しています(14章27節)。キリストに属する者は、主の恵みのみ手を見て喜ぶのです。

主のみ手に支えられて(2010.10.3)

宣教題  : 「主のみ手に支えられて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  13章1節~13節
主イエスは、神殿が崩される時がくることを語りつつ、「世の終わり」の時について予告しておられます。そして、それが起こる時の前兆について語られ、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と励まされました。私たちが耐え忍ぶことができるのは、主イエスのみ手に支えられているからです。

1.しっかりと立つ  5~9節、12~13節
終わりの時には、偽キリストの出現、戦争や民族間・国家間の対立、自然災害の徴が現われ、誤解や無理解ゆえにキリスト者への迫害が増します。そうした時、私たちは「人に惑わされないように気をつけ」、また「自分のことに気をつけ」ていなければなりません。
ところで、このような事態に際して、誰が耐え忍ぶことができるでしょうか。主の弟子たちは、十字架を前にして主イエスを捨ててしまい、最後まで耐え忍ぶことができませんでした。忘れてならないことは、主イエスのみ手に支えられて、聖霊の助けをいただくことによって(1ペトロ4章12~14節)、しっかりと立つことができるのです。

2.福音を宣べ伝える  9~11節
主イエスは、試練や迫害の中にあって、「福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」と語られました。主イエスの十字架と復活は、成し遂げられねばならないことでした(マルコ8章31節)。そして、その福音は伝えられなければならないし、人はその救いに与からなければならないのです(ヨハネ3章3節、5節)。世界聖餐日は、世界中の教会が一致のしるしである聖餐を共にすることによって、世界に対する宣教の責任を果たしていくことを覚える日でもあるのです。
この福音宣教が推進されていく力の源泉は「聖霊」です。私たちは、主のみ手に支えられて、聖霊によって与えられる喜びをもって福音を証しし、宣べ伝えていくのです。