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2010年9月

あと一歩でキリスト者(2010.9.26)

宣教題  : 「あと一歩でキリスト者」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  10章34節~48節
ロ-マの軍人であったコルネリウスは、どこかで真の神を知り、その敬虔さは全家族だけでなく配下の者にまで影響を及ぼし、祈りと施しに生きていました(10章2節、7節)。しかし彼は、自分の信仰には何か根本的に欠けているものがあることを薄々気づいていたようです。彼が真にキリスト者となるには、神による備えと導きが必要でした。

1.伝道者を備えられた
ユダヤ人ペトロが、異邦人に対して何の偏見ももたないでキリストの救いへと導くためには、乗り越えなければならないハ-ドルがありました。それは、異邦人に対する偏狭な民族感情や生活感情から生じたものでした。そのために、コルネリウスが福音を受け入れることができるように、神は幻をもってペトロ自身の心を備えられたのです(9~33節)。ペトロは、この経験を通して、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」(34節)と告白しています。
信徒はみな伝道者です。そのために神は、救われた者が求道者をキリストに導ける備えをして下さるのです。

2.求道者を導かれた
ペトロは厳かに、「すべての人の主」であるイエス・キリストの福音を語っています。このお方の十字架と復活によって「罪の赦しが受けられる」救いの道を証言しました(34~43節)。
それを信じたコルネリウスとその仲間たちには聖霊が降り、ユダヤ人同様に多国語で福音を証しし、神を賛美するという「聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれ」たのです。それゆえに、彼らがバプテスマを受けるのは何の支障もないことでした(44~48節)。
私たちは、誰一人もれることなく洗礼の恵みに与かり、イエス・キリストのものとなり、その交わりに生きる信仰の一歩を歩み出しましょう。

心を見ておられる主(2010.9.19)

宣教題  : 「心を見ておられる主」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  12章35節~44節

イエス・キリストは、ご自身が「主」であることを証言しつつ(35~37節)、そこに居合わせた人々の心を見ておられました。主イエスは、律法学者たちに見る暗い面に、それと対比するように一人の貧しいやもめの明るい面にまなざしを注いでおられます。

1.動機を見られる主  38~40節 主イエスは、律法学者たちの「見せかけの」行為に気をつけるように言われました。それは、見えを飾った虚栄の演出であり、自尊心を満足させる態度であり、あげくは弱い立場の人を横柄に扱う貪欲な態度でした。彼らの心が、こうしたことを好み、それに執着し、自分の利益のことしか考えていなかったのです。 私たちは、自らを十字架に献げ尽くしてくださった主イエスの愛の支配に、死からよみがえられて今も生きておられる主イエスの恵みの支配に生きることが大切です。主イエスは、私たちの言動の全てにおいて、この愛と恵みが動機となっているかを見ておられるのです。

2.真実を見られる主  41~44節 主イエスは、人々が献金をするのを「見ておられ」ました。それは、集中して観察する人のように、深く関わってじっと見られたということです。何と厳粛なことでしょうか。 主イエスは、表面に現われている事実を見ておられます(41~42節)。 しかし、主イエスはその事実だけで判断されないで、目に見えない真実な心を見て、それを大切にしておられるのです(43~44節)。一人の貧しいやもめは、神の愛なしには生きることができないことを知っており、その愛に応答して精一杯の信仰の献げ物をしたのでした。 私たちが主イエスを信じる信仰に生きるということは、主イエスのまなざしの中に生きることを体験し続けることなのです。

祝福を祈る(2010.9.12)

題   : 「祝福を祈る」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記  48章1節~4節 15節~19節
長生きは、神の祝福です。喜び、人生の厚み、神の恵みといったことは、長生きする中から深く分からさせていただけるからです。
ヤコブは、147歳まで長生きし(創世記47章28節)、その晩年において子どもたちや孫たちに祝福の祈りをしています(ヘブライ11章21節)。

1.牧者なる神への祈り
ヤコブは、エジプト王の前に立たされたとき、自分の生涯を振り返って「苦しみ多く」と語っています(創世記47章9節)。彼の一生は、時に禍に振り回され、人の策略に苦しみ、子どもたちの勝手な生き方の犠牲となり、生きた年数を重ねた分だけ苦しみました。
ヤコブは、そのような背後に、「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ」(48章15節)と告白できる神を体験的に知っていました。このお方は、アブラハムやイサクが信頼して「その御前を歩んだ神」(同15節)であり、ヤコブを「あらゆる苦しみから贖われた」お方でした(同16節)。
私たちは、今日まで導かれた牧者なる神を証しし続けたいものです。

2.最大のとりなしの祈り
ヤコブは、その生涯を閉じるに当たり、人生最後の仕事をしました。彼は、全能の神によって自分が祝福されただけではなく、自分が祝福の源となって、「力を奮い起して」息子ヨセフと孫たちを祝福したのでした(48章1~4節)。その行為は、神の約束に堅く立って神を礼拝し、後に続く者に神の祝福を祈るということでした。
ヤコブは、財産や何らかの教えを残したのではなく、自分が信じてきた神の恵みと神への信仰を残したのでした(1コリント15章10節)。以前は利己的なヤコブでしたが、今や祝福の器として召されていったのです。
私たちは、神の祝福を祈り、神の恵みを証しし続ける父親また母親、祖父母でありたいものです。

信仰の復興(2010.9.5)

宣教題  : 「信仰の復興」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  16章6節~15節
信仰の復興は、突然に起こるように思ったりしますが、決してそうではありません。フィリピ教会の誕生の発端となったリディアとパウロたちとの出会いの出来事は、そのことを証言しています。そこには、神の必然と人の備えがありました。

1.神の必然
この出来事は、神の側から言えば、聖霊の御働きの中に起きたことでした。使徒言行録全体が聖霊の働きの記録ですが、特にこの出来事の前に聖霊はパウロを導かれました。まず彼は、小アジアでの伝道を二度にわたって禁じられましたが、それを神の導きと信じ前進していきました。その後、彼がトロアスで祈る中から、対岸のマケドニアでの伝道の幻を見せられたのでした。
パウロ一行は、聖霊に禁じられ、目の前に開かれた宣教地に思いを馳せる中から、ひとつの結論を「確信するに至った」のです(6~10節)。
続いて聖霊は、フィリピのリディアに働きかけられ、「主が彼女の心を開かれた」のでした(14節)。

2.人の備え
そうした神の側の働きかけは、人の側に備えがあるところに成就していきます。特に、リディアに注目してみましょう。
リディアには、「神をあがめる」心がありました(14節)。それは、神を敬い、神を拝して讃え、神が共におられるとの臨在信仰に生きることです。
リディアには、規則的な祈りの生活がありました(13節)。目を見張るような業の背後には、祈りの積み重ねられた日々があったのです。
リディアには、御言葉に聴く心がありました(14節)。聖霊が彼女の心を開いてくださる前に、彼女はパウロの語ることを聴いていたのです。
私たちは、信仰の復興を必要とします。そのためには、多くの備えられた日々の、ある一日にもたらされる神の必然なのです。