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2010年7月

福音のための交わり(2010.7.25)

宣教題  : 「福音のための交わり」   宣教:   鎌野 直人師
聖   書  : フィリピ1章1~7節

関西聖書神学校には現在21名の神学生が学んでいる。みことばと聖霊に導かれ、祈り、神のめぐみの広さと深さを経験し、整えられた品性を持ち、教会を立てあげる伝道者を養成するための働きは80年以上、継続している。

神学校の働きとそれぞれの教会の働きとはどのように関わっているのだろうか。それは「福音のための交わり」(1:5)である。パウロとフィリピの教会が福音を宣べ伝えるための交わりの中にあったような関係を教会と神学校はもつべきだ。

パウロとフィリピの教会は、手紙を送り、喜びと感謝と願いと取りなしを祈り、具体的にものを送るという形で福音のための交わりを持っていた。この交わりを通して、パウロの宣教の働きは進められ、フィリピの教会も義の実に満ちあふれることによってその地域での宣教を進めていった。

福音のための交わりには三つの特徴があった。まず、それは継続した交わりであった(1:5)。次に、この交わりは神が始め、神が導き、神が完成されるものである(1:6)。最後に、困難と戦いの中にあるからこそ、この交わりを通して共に神のめぐみにあずかることができる(1:7)。

神学校は現在、困難の中にある。だからこそ、福音のための交わりがさらに深められなければならない。学んでいる学生が整えられ、新しい学生が加えられ、神の栄光と誉れを表す神学校となるように祈っていただきたい。

再び燃えたたせなさい(2010.7.18)

宣教題  : 「再び燃えたたせなさい」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 2テモテ1章3節~7節
私たちは、イエス・キリストを信じることによって、神の救いの福音に与かっています。その福音は、私たちの内から満ち溢れ、伝えられ、受け継がれていくものです。さて、パウロがテモテに、「あなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせなさい」と勧めていますが、それは今日の私たちへのメッセ-ジでもあります。

1.再び燃え立たせるものは何か
私たちが、どのような時であっても、いかなる状況下でも、神が一方的に与えてくださる「神の賜物」に満ち溢れて燃やされている必要があります。神は、このことにおいて大胆な者に変えられることを願っておられます。
神の賜物は、「力」の霊です。それは、主イエスご自身が信じる者に内住してくださり、内から働き出してくださる聖霊の力です(使徒言行録1章8節)。また、「愛」の霊です。私たちは聖霊によって神の愛が注がれるならば、愛が溢れ出て、豊かな結実を生み出すのです(ロ-マ5章5節)。そして、思慮分別の霊です。聖霊に導かれているならば、その信仰生活に慎みがあり、健全かつ常識があり、落ち着きがあって、バランスがとれた心と魂の状態となるのです。

2.再び燃え立たせる秘訣は何か
私たちが力と愛と思慮分別の霊に燃やされ続けているためには、全てをイエス・キリストに任せて、従い抜くことです。そのためには、日々に信仰の目をもって見続けていなければならないものがあります。
まず、信仰の遺産を回顧することです(1章5節)。そして、福音の出所であるイエス・キリストを仰ぎ見ることです(1章9~12節)。さらに、信仰に立っている周囲の聖徒たちを見ることです(1章16~18節)。最後に、前方に開かれている将来を見ることです(4章7~8節)。
このようにして聖霊の炎が燃え続けていくなら、私たちの内にある不必要なものが取り除かれていきます。そして、私たちの周囲が変えられ、福音が伝えられ、受け継がれ、拡げられていくのです。

聖書と神の力(2010.7.11)

宣教題  : 「聖書と神の力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書  12章18節~27節
主イエスは、復活はないと理解していたサドカイ派の人々に対して、「あなたたちは大変な思い違いをしている」(24節、27節)と言われました。それは、単なる思い違い以上に、大いに誤っている、とんでもない所に迷い出ているという意味です。その理由は、「聖書も神の力も知らないから」でした。

1.神の力を知らない  25節
サドカイ派の人々は、モ-セ五書に明記されている御言葉だけに立つという立場でした。彼らは、家系と財産を保存するための規定を用いて(申命記25章5~10節)、復活はないと議論をしかけてきたのです(マルコ12章19~23節)。それに対し主イエスは、あらゆる領域において生きて働いておられる神の力を知らないから、聖書が語る教えに疑いが生じるのだと指摘されました(同24節)。
イエス・キリストの十字架と復活を信じる者は、「もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」との約束をいただいています(ルカ20章36節)。その復活のときには、結婚も死もない世界に生きるのです。

2.聖書を知らない  26~27節
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とは、サドカイ派の人々が重んじていた御言葉の一つでした(出エジプト3章6節)。その神は、死んだ者の神ではなく、生きている者の神であって、今の私たち一人ひとりに「わたしはあなたの神である」と語りかけていてくださるのです。私たちは、この語りかけを聴き取ることが大切です。
十字架上の二人の犯罪人は、最も主イエスの近くにいました。しかし、真に近くいたのは、悔い改めた者であり、そこに永遠の救いがあったのです(ルカ23章32~43節)。私たちも信仰によってイエス・キリストと結び合わされるならば、十字架と復活に現わされた神の力が「私の救い」となるのです。
御言葉と神の力に対する信仰があるならば、誤り、迷い出ることはありません。

人生を変える出会い(2010.7.4)

宣教題  : 「人生を変える出会い」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 9章32節~35節
私たちは、人生の途上において様々な出会いを経験します。それには、詩編に見るように、嘆きとの出会いがあり、神を讃える出会いもあります。大切なことは、私たちの人生を根本から変えてくださるイエス・キリストとの出会いが一人ひとりに求められていることです。

1.嘆きとの出会い
ここに登場するアイネアは、8年間も中風で床についていました。彼は、人には見離され、自らも治りたいと願う気力もなくなり、諦めて無力感と不安といらだちの中にいたと思われます。
今日、私たちは「失う」という様々な経験をします。病によって健康を失う、死別によって家族を失う、人間関係がこじれて友を失うといったことがあります。また、罪と汚れによって自分自身を失う、自らの死を迎えて将来を失う、あげくは、神に見捨てられたと錯覚してしまって神を失うこともあります。こうした喪失による嘆きとの出会いは、私たちを無力、諦め、いらだちの虜にしてしまいます。
しかし、私たちが失うという経験に向き合っていくなら、神が開いてくださる新たな世界を発見することができるのです。

2.キリストとの出会い
大切なことは、様々なものを失うという嘆きの中を通されても、魂の命を奪うことをなさらないイエス・キリストとの出会いを経験することです。アイネアは、ペトロによって「イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と招かれ、「すくに起きあがった」と、信仰の応答をしました(34節)。
私たちは、誰ひとり例外なくイエス・キリストに出会い、その十字架による罪の赦しをいただく信仰に堅く立たせていただく必要があります。さらに私たちは、多くの人々がアイネアを見て「主に立ち帰った」ように、私たちを見る人々が、私たちを造り変えてくださったイエス・キリストを見ずにはいられないという、キリストの証人とされたいものです(35節)。その秘訣は、ただ信仰に立つことです。