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2010年3月

十字架への道(2010.3.28)

宣教題  : 「十字架への道」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 14章32節~42節
エルサレムの町の東側にあたるオリ-ブ山の中腹にあった「ゲツセマネ」でのことです。そこで主イエスは、迫り来る受難を間近に控えて、その心の思いを父なる神に向かって訴えるように祈られました。さらに弟子たちに向かっても、その思いをはっきりと告げられました。

1.キリストの苦しみが現われている
ゲツセマネの祈りは、主イエスの壮絶な苦しみ、苦闘、苦悶の様を伝えています。主の苦しみは十字架上だけではなかったのです。そこに現わされた主の恐れと悲しみは、神を否む罪と死に対して抱かれたものでした(33~34節)。
それに対して主イエスは、神の御心に適う道を求められ、全ての人の罪に対して注がれる神の怒りを一身に引き受ける祈りをささげられたのです(35~36節)。
しかし弟子たちは、眠りこけてしまいました(37節)。肉体の疲れによって眠っただけではなく、魂も眠ってしまって神の御心に無頓着になっていたのです。主イエスが「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(38節)と語られたように、キリストの苦しみを覚えつつ、魂が目覚めていたいものです。

2.キリストの従順が現われている
ゲツセマネの祈りに見る主イエスのお姿は、徹底して人となられた神、どこまでも私たち人間の側に立ち続けておられる救い主を伝えています。主イエスは、「御心に適う」道を選ばれて、全てを明け渡されました。主は死に至るまで父なる神に従われたことを通して、従順を学ばれたのです(ヘブライ5章7~8節)。ですから私たちも、神への従順を学び続けていくことが大切なのです。
さて、ゲツセマネの祈りを終えられた主イエスは、「時が来た。人の子は罪人たちの手に渡される。立て、行こう」(41~42節)と言われました。人間の罪がどれほど絶望的であっても、死の闇がどんなに深く覆っていても、行き詰まりの中に八方塞がりでうめいていても、主イエスは立ちあがって歩み出してくださいます。今私たちは立ち上がって、信仰の従順の一歩を踏み出させていただきましょう。

喜びの拡大を(2010.3.21)

宣教題  : 「喜びの拡大を」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 8章1節~8節
キリストの十字架と復活の福音は、迫害の中にあっても前進し続け、勝利をもたらしました。その結果、人々に大きな恵みが注がれ、「人々から非常に好意を持たれて」いました(4章33節)。
さらに、散らされた主の弟子が福音宣教を拡大していったことにより、人々に救いの喜びが拡がって行ったのです(8章8節)。

1.試練を通して拡がっていく  1~4節
ステファノの殉教の死は、人々に大きな悲しみをもたらしました。また、教会は大迫害を受け、使徒以外の主の弟子たちは散らされるという試練を経験しました。
しかし、神は生きておられ、試練を試練のままで終わらせなさいませんでした。それを逆手にとるかのようにして、散らされて行った主の弟子たちによって福音宣教が拡げられて行きました。また、この出来事を通して、サウロが救われる伏線となりました。神が働かれると、どんなに荒れ狂った迫害者も、神によって新たに用いられるようになるのです。
このように、福音がもたらす神の創造的な御業は、いかなる状況下であっても、それを価値あるものとされるのです。

2.恵みの器を用いて拡がっていく  4~8節
宣教の領域は拡がって行きます。散らされて行った主の弟子たちは、ギリシャ語を使う人たちで、ギリシャ語を使う地域へと遣わされて行きました。彼らは、使徒ではなくて、言わば信徒でした。その中の一人に教会に仕えるフィリポがいました。このように、教会に対して起きた迫害は、むしろ信徒の働きに拍車をかける結果となったのです。
主の弟子は、関わることのできる領域や地域や関係筋といった恵みの場に遣わされて行きます。そこにおいて、キリストの救いに与かっている者は、生きておられるキリストを見ることはできませんが、キリストを愛するという喜びに生きるようになるのです(1ペトロ1章8~9節)。このようにして、集められては散らされて行く恵みの器は、福音に与かっている大きな喜びを拡大していくのです。

ひとり子をたもう神の愛(2010.3.14)

宣教題  : 「ひとり子をたもう神の愛」   宣教:   勝田 幸恵 伝道師
聖    書  : ヨハネ 3章16節~21節
私たちはこの世に生まれてから、いつも愛を求めて生きています。赤ちゃんの時はお父さんお母さんの愛、大人になると家族や仕事などです。このように私たちはいつも誰かに愛を求めて生きているのです。

1.神はこの世を愛して下さった。
神様はこの世を愛して下さいました。しかし、この世は神様を無視し、罪によって失われた世界と言えます。神様に背いて、罪に満ちた私たちを、神様は限りなく愛して下さっているのです。その愛は、無私で無償の愛、人種的偏見や人間的差別もありません。神様は、私たちが罪人であろうとも愛して下さっているのです。神様の愛は、どのように表されたのでしょうか?

2.神はそのひとり子を賜ったほどに愛して下さった。
キリストの十字架によって、神様の愛が具体的に表されました。人間は罪を持ったままでは絶対に御国に行くことは出来ません。でも神様は、全ての人が救われて御国に行くことが出来るように、キリストをこの世に送られたのです。
神様はどうして、これほどまでにキリストの十字架と言う大きな愛の犠牲を払って下さったのでしょうか?

3.神は滅びから永遠の命に移すほどに愛して下さった。
キリストは、私たちが永遠の滅びから救われて永遠の命を得る為に、私たちの罪の罰の代わりに十字架で受けて死んで下さったのです。
永遠の命とは、肉体の死だけではありません。誘惑に打ち勝つ命であり、試練や困難の中にいても私たちが生き続けることが出来る命なのです。
献身する前、私は試練に遭いました。私を支えてくれたのは、私の祈りを聞かれていた神様だけでした。それまでの私は、人に言えない罪もありました。それにも関わらず私を愛し続けて下さっている神様は、信じ求める者に勝利を与えて導いて下さるお方なのです。日々、神様の愛を求めて、キリストによる救いの勝利を得ましょう。

真実であれ(2010.3.7)

宣教題   : 「真実であれ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 11章12節~19節
受難の道を歩まれるキリストは、エルサレム入城の翌日に理解しがたい行動をとられました。それは、実のないいちじくの木を呪い、荒々しく神殿をきよめられた出来事です。そこには、キリストご自身の失望と怒りが現わされているのですが、その根底にはキリストの真実が秘められていました。

1.真実を見抜かれるキリスト
キリストは、葉だけを茂らせて実のならないいちじくの木を枯らせてしまわれました。それは、神の民が過越祭という神への熱心な礼拝をささげているにもかかわらず、神の民としてふさわしい実を結んでいないことを教えようとされた行動であり、そこに潜む偽善を明らかにされたのです。続いてキリストは、神殿におけるささげ物の売買や両替がなされていることの中に、「それを強盗の巣にしてしまった」と偽善の罪が横行していることをあばかれました。キリストは、そのような偽善がご自身を十字架につけてしまうことを見抜いておられたのです。
さて、キリストが十字架において命を投げ出してくださった事実には、偽りのない愛が現わされています(ロ-マ12章9節、1ヨハネ3章16節)。このキリストの真実な愛が私たちを真実な者に変えるのです。
2.真実を求められるキリスト
真実を見抜かれるキリストは、私たちに真実を求められます。
まず「わたしの家」とは、今日の教会です。そこはキリストと交わり、神を礼拝する「祈りの家」です。このことを忘れてしまうと、私たちは自分の考えや感情を満足させるために神を引き合いに出して利用するようになってしまいます。このことに関しては、絶えず信仰の目覚めをいただいていることが大切です。
また私たちは、キリストの十字架の贖いによって「聖霊が宿ってくださる神殿」とされました(1コリント6章19~20節)。ですから私たちは、日々にキリストの愛と真実に支配されて、神のものとして生きることが求められているのです。そのようにして、真実な信仰の歩みが造られていくのです。