宣教題 : 「逆こそ真」 宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖 書 : マルコ 10章32節~45節
主イエスがご自身の受難と復活を予告された際に、ヤコブとヨハネは栄誉と報いを求めました。それに対して主イエスは、「仕える者になり・・・すべての人の僕」になることが、真に偉大な道であることを明らかにされました。仕えるとは、どういう在り方なのでしょうか。
1.キリストの愛に触れ続ける
私たちは、スキンシップや心の触れ合いによってお互いの感性が豊かにされます。聖書には、主イエスが人に触れられることによって御業をなされたり、人が主イエスに触れることによって癒されたりしている場面が多くあります。
ところで、主イエスが来臨された最大の目的は、「多くの人の身代金として自分の命を献げるため」でした(45節)。それは、罪と死の虜になっている者を解き放つために、主イエス自らが十字架で血を流して身代金となってくださったのです。
私たちは、自分の決断によって、僕となって神と人に仕えることはできません。いつもキリストの十字架の愛に触れ続け、復活の命に触れ続けることによってのみ可能なことなのです。
2.キリストの謙遜に倣い続ける
主イエスは、「仕えられるためではなく仕えるために」来られました(45節)。私たちは、このキリストの謙遜に倣い続けることによって、僕となって神と人に仕えることができます。これこそが、「偉く」また大きくなることなのです。
この勧めは、ヤコブやヨハネなどの特別な人に対してだけなされたものではありません。「あなたがたの間で」(43節)と、今日の教会に対して勧められているのです。教会は、仕える人と仕えられる人と区分けしてしまう所ではありません。キリストが仕えていてくださることを知る者は、人からの些細なことにも仕えられる恵みに気づき、神と人とに仕える者とされるのです。
私たちは、互いに仕え合う喜びに生きてこそ、互いが大きくなり、真に偉くなるのです。