宣教題 : 「聖霊に満たされて」 宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖 書 : 使徒言行録 6章8節~15節
主の弟子たちの中から選ばれた7人は、細やかな愛の奉仕を忠実に励む人たちでした。なかでもステファノは、キリストを証しすることと力ある業を行うことにも忠実でした。彼がそのように歩んだ秘訣は、「聖霊に満ちている」(3節、5節、10節)主の弟子だったからです。
1.健全な主の弟子である 8~10節
ステファノは、「恵みに満ち」ていました(8節)。彼は、救いの完成へと導く神の恵みを無駄にしたくないために、恵みによって主の業に励んだのです(1コリント15章10節)。また、「力に満ち」ていました(8節)。その力は、人をキリストとその救いに導くものでした(1章8節)。さらに、神を畏れ敬う「知恵に満ち」てキリストを証しし、弁明しました(3節、10節)。そして、主なる神に対する全き「信仰に満ちて」いました(5節)。聖霊に満たされるとき、主なる神を讃え、新しい言葉がつくられ、キリストの香りを放つ健全な主の弟子とされるのです(ヱフェソ5章18~20節)。
聖霊に満たされることは、信仰者が自由に選べる贅沢品ではありません。だれにとっても絶対に必要なものなのです。
2.輝いている主の弟子である 11~12節
素直に福音を受け入れられない人々は、ステファノに対して反対や妨害をしました。彼らの怒りは高まって、民衆がそれに加わるように動員され、偽証までさせています(11~14節)。ここに、自分の立場を守るためには手段をも選ばない人間の罪の姿が現れています。しかし、そのような中でもステファノの顔は、「さながら天使の顔のように見えた」のでした(15節)。これは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」との信仰に生きる者の輝きです(ガラテヤ2章19~20節)。
キリストの救いの恵みが届けられるために、神は人を用いられます。しかも、環境や状況や条件に支配されることなく、聖霊に満たされた輝く器を用いられるのです。